こんにちは。19期会計班、踊り子 あん です。
まさか、ブログリレーのバトンが私に回ってくるとは思ってもみなかったですが、ぴとぅメンバーの1人として、書かせて頂きました。文章力が無く、どう書いていいのか彷徨いながら書いたため、読みにくいかもしれませんが、空いたお時間にでも読んで頂けたら嬉しいです!
私がよさこいと出会った物語。
「よさこい」という言葉もまだ知らない、小学生の頃、家の近所のお祭りに行くのが好きだった私は、お祭りの日には祖母に浴衣を着せてもらい、屋台でゲームをするのではなく、やぐらの周りで盆踊りを踊ることが好きな子供でした。友達とは子供の部まで一緒にいて、子供たちが毎年楽しみにしている詰め合わせお菓子をもらったあと、子供の部が終わり、友達はみんなお家に帰る中、私は祖母にお菓子を預けて、さらに大人の部まで残り、大人に混ざってドンパン節や炭坑節を踊っていました。分からない振りは大人が踊っているのを真似しながら、途中で抜けるわけでもなく、ただ、ただ踊ることが好きで子供が私ひとりになっても、楽しいから最後まで踊っている、そんな子供でした(笑)。何曲か今でも踊れる(笑)最近では、河内音頭かな…(笑)踊ることが好き。今の私がいる原点だったのかもしれませんね。
そんな子供時代を過ごした私は、高校生の夏、よさこいと出会いました。
私の祖父母の故郷が高知県で(祖父母は大阪に住んでいます)、毎年、夏休みには家族で高知へ行き、バーベキューをしたり、畑仕事のお手伝いをしたり、近くのお祭りへ行ったり、親戚みんなで集まったりして、楽しく過ごしていました。毎年、田舎で充実した夏休みを送っていた私ですが、初めて、高知市の花火大会へ連れて行ってもらった時のこと、少し遠くに流れる音楽が聞こえ、「あ、近くでお祭りやってるんかなぁ。盆踊りやってたら入りたいなっ」などと思いながら歩いていると、次第に人が多くなり、いつのまにか周りにはたくさんの屋台が並んでいて、遠くに聞こえていた音楽は気付くと、すぐ近くで大音量で流れていて、人混みを抜けるとそこには、今まで見たこともない大きなステージがありました。よさこいと出会った場所・・・そこは、中央公園でした。
ライトアップされたステージいっぱいに、綺麗な衣装を身にまとい、音が鳴るしゃもじのような物(鳴子)を持ち、輝くような笑顔でたくさんの人が踊っていました。「わぁー、すごい。綺麗やなぁ。みんなキラキラしてる…」私は、一瞬にして、高知のよさこい祭りに心を奪われました。「いつかこのステージで、目の前で踊っている踊り子さんみたいに、笑顔で踊りたいなぁ。キラキラしたいなぁ」そんなことを夢見ながらも、よさこいと直接縁があるわけでもなく、時が経ちました。
専門学生の時、まだ、mixiが流行っていた時代。よさこいに触れたい。関わりたい。繋がりたいという思いで、プロフィールに「よさこいに興味があります」…みたいな事を書いてたのですが、それを見た、当時、大阪・姫路で活動していた「風鈴」というチームから声を掛けてもらいました(夢源風人と出会うのは、その約5年後くらい)。見学に行ってからあまり日が経たないうちに、「入ります!」とお返事してました。それから、私のよさこい生活の幕開けとなるのです。所属して約1ヶ月で振りを覚え、お祭りに参加したこと、今では不思議でしかありません(笑)やっぱり、踊ることが好きだったみたいです(笑)
総踊りにも混じってみたり、こんなにも楽しいのかと思いながら、いろんなお祭りに参加していましたが、少人数だったので、参加出来るお祭りが限られていました。私も、社会人となり、練習やお祭りにも参加することが少なくなりつつも、どこかで高知のよさこい祭りに参加したいという思いがあって、他のメンバーも個々で高知のよさこい祭りに参加していたこともあり、代表に相談すると、「大阪で高知のよさこい祭りに参加してるチームやったら、夢源風人っていうチームがいてるよ」と教えてもらい、時期的にも6月だったので、高知前の最終募集枠が空いてたら参加出来るかもしれない!という思いで、代表と知り合いだった夢源風人の事務局さんに話をつなげてもらい、その後、見学に行きました。加島の高架下で踊り子さんたちが練習をしているそばで、高知のよさこい祭りプランの話を聞き、一旦、考えることにしました。この時、お話をしてくれたのがぴとぅの妖精、たいがさんでした。
お話を聞いて、いろいろ考えましたが(お金の事とか、練習のこととか…)、やっぱり高知のよさこい祭りに参加したい気持ちが強く、スポット(高知のよさこい祭り限定)で参加することとなりました。デビューに向けて、振りを覚え、事務局さん、インストさんのサポートもあり、無事、高知のよさこい祭りに参加!高知のよさこい祭りの知識も何も知らない。ただ、あのステージに憧れていたお客さんだった私が、踊り子として参加するなんて思ってもみなかった。私の初めての踊り子としての高知のよさこい祭りは夢源風人「万華鏡」でした。
経験したことのない爆音とお客さんの数、会場の移動数や演舞距離、演舞回数。みんなに付いていくことしかできないけど、これが高知のよさこい祭りかぁ!…と身体中で感じた、心から楽しんだ忘れられない夏でした。終わった後も、ずっとあの感じが忘れられず、スポットで参加したのですが、その後、本登録し、チームを掛け持ちした状態で他のお祭りにも参加するようになりました。
気付くとその年から、5年続けて高知のよさこい祭りに参加していました。そうです。高知のよさこい祭り沼にハマってしまったのです(笑)暑くて、一日中踊り続けて、すごい疲れるし、次の日、絶対筋肉痛になるし、動けない。もう、ムリ…って思いながら、衣装着て、髪セットして、メイクして、足袋履いて、鳴子持って、気付いたら踊ってる。毎年、高知のよさこい祭りが終わるまで、疲れることを忘れちゃうんですよね(笑)あの感じ、やみつきになるんです(笑)ほんとに、いろんな意味で高知のよさこい祭りってすごい。私のモチベーションの一部です。
こんなにも続けて参加したいって思えるのは、夢源風人のチーム連携がすごいから。すごい大人数でも、メンバー、踊り子のことを一人ひとり、すごく大切に思ってくれているから、安心して、お祭りに参加出来るのです。いつもありがとうございます。(すごいが多い…)
夢源風人と出会って、より、よさこいが好きになりました。いろんな人と出会い、たくさんつながることができた。すてきな仲間にも出会えた。
よさこいに出会えたからこそ、今の自分がいる。それは、たくさんのつながりがあったから。
そして、子供の頃に盆踊りに参加していた私を見守ってくれた祖母は、毎年、高知のよさこい祭りで夢源風人を追っかけてくれます。私よりぴとぅ団扇もたくさん持っています(笑)まさか、私が高知のよさこい祭りで踊るなんて思っていなかったと思います。ずっと、見守ってくれて、応援してくれています╰(*´︶`*)╯♡
私にとって、夢源風人は、人生が大きく動いた場所でもあり、かけがえのない場所なのです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
これからも、たくさん笑って、たくさん踊って、よさこいを楽しみたいと思います。また、どこかで見かけたら、気軽に声を掛けてくださいね。では、また!!
夢源風人 あん
「夢源風人の・・・」って自己紹介がまだ緊張してできんくらい、ぴとぅ初心者のふぁいです(*/∀\*)
よさこい歴は長い方?なので、実は「夢源風人」ってチームに10年以上前の高知で出会っていたような気もしたりしなかったり(笑)
ブログのテーマ「ぴとぅとの縁、つながり」を、自分は「ちょっと勇気が必要な時」に感じてきました。なので、ぴとぅと初めてつながった時から今日まで、勇気をくれた、つないでくれたみんなのお話ができたらと思います(* ´ ▽ ` *)
①歩目:初ぴとぅ
説明会に行くか迷っていたら、Twitterで公式さまからコメントと勇気をいただき、練習会場に行くことができました。その日体育館の扉を開けてくれた人、説明してくれた人、振り落とししてくれた人、話しかけてくれた人、憧れるような演舞を見せてくれたみんな…がいて、ぴとぅとつながることができました(*´∀`*)2018年2月
②歩目:練習
振り落としが終わっても、隊列に入る自信も力もない自分…。練習に行くのもすごく勇気がいりました。そんな時自分をつなげてくれたのが、フォロー練や自主練です。
※フォロー練とは・・・振り落とし終わったけど不安なところがある人のためにインストさんがしてくれる練習。
なんとか踊れるようにしていただき、春から入ったメンバーともつながれたおかげで、練習に向かえるようになり、メンバーとも少しずつしゃべれるようになりました(*´ω`*)2018年5月(笑)
※ココナツぴとぅデビュー組を中心に、同じような不安と「高知行くぞー!」って気持ちでつながったメンバー(自分写ってないw)
無事にぴとぅとつながり、お祭りいっぱいの夏や秋をぴとぅで過ごし、たくさんの「楽しいっ(*≧∀≦*)」に出会えました。
※四国物産展での他チームさんとの合同演舞。「この地へ」とか♪
でもまだぴとぅの半期くらいしか知らない自分。まだまだ勇気が必要な場面が出てきました(笑)
③歩目:振り落とし
初めてみんなと一緒の振り落とし。「できんー(>_<)無理っ!」に飲み込まれてしまう期間。そんな時つなぎとめてくれたのが、練習後練(自主練)でした。練習の日にそのまま近くの公園で練習して帰る、そんな仲間がいてくれたから、「できるようになりたい!」って思えました。また、練習後練でも全く動けんくて、立ってるだけで精一杯な時に送られてくる振り動画が、そこにいるみんなと自分をつないでくれました(*T^T)動画があれば踊れんくても練習を振り返れる、できることが見つかる。振り落としと、動画と、そこにいてくれるメンバー、全部がつながりあって、自分をつないでくれました(>ω<。)2018、19年冬。
※練習でのつながりが、自主練を企画できるキャラに成長させてくれました。(笑)
④歩目:お祭り、イベント
無事にお披露目やぴとぅでの1年を経験した頃、「自分なんかが踊ってていいんかな…」って不安が出てきました。2019年6月。そんな時自分をつないでくれたのは、それぞれのお祭りやイベントを一緒に作るメンバーとお客さんでした。祭りのたびにメンバーが変わることに気づいたから…、一緒に踊りたい人が増えたから、「やっぱり踊りたい!」って思えるようになりました♪会いたい人、届けたい人、一緒に作りたい人たちが、踊る勇気をくれました(*´ー`*)
自信がなくて、勇気がいる場面がいっぱいな自分は、たくさんの人につないできてもらって、今ぴとぅにいられています。
ありがとうございます(≧ω≦。)
たくさんたくさんぴとぅと自分をつないでもらってきて、「自分も何かしたい!」って思うようになりました。2018年秋頃~
「何か」は今もわかんないままですが(笑)、自分もつなぐ人になりたいです!
会計班もその一つ。いつもみんなとのつながりを感じられて幸せです(〃´▽`)ありがとうございます!!
※会計班デビュー(笑)2018年12月クリ忘
いろんな場面でつながりを感じさせてもらってきたけど、自分は
って一番思っています。だから、踊るの苦手やけど、話しかけたりもできんけど、練習会が好きです!
みんなに会える場所、つながりや思いに触れられる場所、みんなが思いを寄せられる場所やと思うから。いろんな人とつないでもらってきたから。早く練習行きたい、作りたい・・・ですね(*´-`)
【つながり】
今でも、練習もお祭りも、楽しみやけどちょっとどきどきします(笑)それでも行く勇気が持てるのは、つながりをいっぱいもらってるからです( *´艸`)つながりたい、つなぎたい、そんな思いをもてるのは、夢源風人とつながってくれているみんなのおかげです♪
いつもありがとうございます!これからもよろしくお願いします(*´▽`*)
ふぁい
初めましての方は、初めまして!ネット上でしかご挨拶できていない方も含めて、そろそろ皆に会いたいです!
近況をまったく知らない人ばかりですが、みなさん元気にしてますか?
むねおです。ぴとぅ2年生です。(よさこい3年生のぺーぺーです)
東海支部(支部長(^^;))、ウェルカム班、カメラ部、メディカルチーム(最近できた)に所属しています!え、こうやって見ると所属多すぎですねw
練習期間中は、名古屋→大阪に月6-8回通う愚か者です(‘ω’) しょっちゅういますけど、名古屋在住なんです。夜勤明けでも行くので、それなりにコンディション悪い日が多いですw
今回ブログ当番を担当させていただくのにあたって、まー考えました。
書くなら結構重い話も書くのかなと自分の中で思うので、あんまり見たくなかったり興味の無い方は、読まずにおいてください(*’▽’)
ぼくは典型的な『よさこいを踊ってる踊り子に元気をもらった人』です
愛知県出身のぼくにとって、『よさこい』=『どまつり』でした。
高知が本場っていうのは知ってました!が、教科書で『本場のよさこいは高知』って習ったくらいの知識。
名古屋でどまつりが始まったのは1999年、当時大学生で愛知にいなかったぼくが最初にしっかりどまつりを観て感動したのは2004年。いろいろあってニートになって、割といろいろ落ち込んでいたぼくが、『よさこいに感動して元気をもらった』初めての経験でした(*^^*)
たぶん初めて観たのは『笑“』さんの演舞だと思うんですけど、
と衝撃を受けてから、『よさこい』に何となく興味を持つようになりました。
そして、この演舞を観たのをきっかけに将来のことを前向きに考えられるようになり、結果いまの仕事に就きました。
続ける勇気を持てなかった当時
そのあとなんだかんだあって、2012年のどまつりを観て凄くカッコいいチームがあったので、思い切って某どまつりチームに入ろうと2チームほどチャレンジしてみたのです。結果、お仕事と両立できずに諦めたんですけど(‘_’)
飛び込む勇気はあったけど、続ける勇気が無かったと、いまでは思います。
当時、もし軌道に乗っていたら、もしかしたら夢源風人には興味を持たなかった…かもしれないです。
高知に初めて行ったのは2013年の夏。
そこで初めて観た本場のよさこい祭りは、なんてゆうか感動的でした。追手筋で泣きながら踊る姿を観て、「世の中には、大人でもこんなに夢中になれることがあるんだ!」と驚き、また行きたいと強く思いました。
当時とても印象的だった、能登和っちゃさん
次に高知に行ったのが2017年。
そしてその年、夢源風人と出会いました。
2017年、その当時『も』ぼくは無職でした(‘_’)笑
その頃は、まあ相当に病んでたとゆーか、表現は難しいですけどまあ病みきってました。
この年に高知に行かなければ、今、どうなっていたんでしょう?生きていないかもしれません。
色んな目的を失っていて、リフレッシュ的に各地のお祭りを巡ったりした中で「ああ、もう一度だけ本場のよさこいを観たいな」と思い、立ち寄った高知。そこで出会った、一際目にとまるチーム。カラフルな衣装、素敵な曲と笑顔、
『夢源風人』のチーム名に一瞬でココロを奪われました
当時は全然よさこい祭りのシステムを知らず、高知のチームだと思い込んでいたけど、調べてみたら実は大阪のチームとゆーことを発見。「また観たい!」と思い色々な祭りを追いかけて、結果その年はただのストーカーになりました。当時はご迷惑おかけしました(‘ω’)笑
この出会いをきっかけに、ぼくはよさこいの事を真剣に好きになり、『生きる糧』というと重たい表現なんですけど、沼の底に沈んだ気持ちから浮き上がることができたんだと思います。
夜の帯筋でココロを奪われた(本人無許可)
『高知』が、もう一度入る勇気と、続ける勇気をくれました
そんな流れで、「自分もあんなふうに高知で踊ってみたい!」と思い、再び踊り子に挑戦をしました。
2018年、やいろさん(同年解散)でお世話になり、下手っぴながら何とか1年乗り切りました。
よく言われた事は『むねお(仮)さん、迷子になってます!』
自分でも、よくやれたなと思うし、よく最後までやらせてもらえたなって思います…(‘_’)
できない部分はとにかく練習したけど、とりあえず体力だけはつきましたw
踊り子として迎えた初めての高知は、狂ったように暑くて、帯筋で意識飛んじゃうんじゃないかと思ったり、夜の商店街が美しかったり、最後の追手筋で号泣したり…
2013年に追手筋で観た涙を流しながら踊る踊り子さんと、同じように自分も踊っていました。
高知は、踊り子として参加しても、やっぱり最高でした。
名古屋から高知に来てくれた後輩ちゃん。まさか本当に来るとはw
夢源風人に入るのは、小心者のぼくには勇気が必要でした
やいろさん解散パーティーで『来るよね???』と、一部のぴとぅメンバーからグイグイ来られたことは、忘れません…笑(とてもプレッシャーを感じました)
でも、みんな踊り上手いし!すごく表情すてきだし!大阪の人怖いし!w あんな中に入っても、ぜったい足引っ張るし!入りたいけど、入るのにはぼくの中でとても勇気を出した行動でした。
趣味の集まりで『足を引っ張る』というのも不思議な表現ですが、好きであればあるほど、そんな感情は生まれるかもしれません。
案の定、入った当初は踊れなさ過ぎて大いに心配されたと思います(‘ω’)
ここでも同じように、下手なりにとにかく必死で練習しました。
名古屋から通ってるのを言い訳に、なかなか周りに喋りかけられない日々…ようやくみんなと喋られるようになったのって、お披露目の時ですね。やっぱ飲み会の力は偉大ですw
(ちなみに撮影時の記憶はありません)
でも、続ける勇気を出せたのって、下手っぴな自分に諦めず教えてくれた人や、ビビりで人見知りな自分とも仲良くしてくれた人や、なによりも『高知の楽しさ』とゆーご褒美があるから頑張れたのかと思います。あと、大阪の人は怖くありませんでしたww
よさこいを始めたことで世界が広がったことを実感してるし、知っている人が客席にどんどん増えて、自分を見て笑顔をくれるって、とても幸福なことだなって思います。夢源風人に入ってからは、より世界が広がったのを、とてもとても実感しています。
よさこいに関わった期間は短いけど、もうよさこい無しでは生きられない身体になってしまいました(‘_’)
2019年の7月の某日。
現代表のかなーみさんから「東海支部、やらん?」と声をかけられたあの日、忘れません。
それまでも、なんとなーく東海支部の話はいただいてました。
でも、正直あんまやる気なかったです(‘_’)
自信なかったし。あ、自信ないのは今もですけど。
自分にとって救いとなったのは、『支部をどういう形でつくっていくか』と具体的なテーマを与えられなかったこと。いまでも、それについて誰かと明確に話したことはありません。だから、ここで初出しになりますが『誰かの居場所』をつくる事が、ぼくにとって『支部をつくること』になりました。
やってみようかなと思ったのは、誰かのため
表向きにはいろいろと理由を言ってますが、決断した理由は2つ。
地方のメンバーさんのためと、『100年続くよさこいチームをつくる』って願いを聞いたとき、じゃあ100年続くチームをつくるために自分には何ができるんだろうと考え、やることに決めました。
演舞を揃えたいとか、そういうことももちろんあります。
でも、それよりも『支部があってよかった』と思ってもらい、『夢源風人に入りたい・支部があるから続けられる』と思ってもらったら、こんなに嬉しいことはありません(アムロレイ風)
いまのところ、東海支部はほとんど活動できてません…_| ̄|○ 練習よりも、ごはん食べに行ってるほうが多いかも?
最近では、くびれを作るエクササイズなんかしてます!(よさこいは?)
でも、支部を運営することで繋がりが増えて信頼できる人も増えて、今年は大変な年だけど、大変な年だからこそ支部立ち上げて大正解だったなーと思ってます!
支部だけど、夢源風人の中の1人として
今後、支部がどうなるか?は、しょーじき何も決まってません、決めてません。
基本的に、支部はあくまで大阪本体のサポートで、支部だけで祭りに出る事は考えていないけど、支部だけで隊列錬をすこーしできると活動の幅が広がるなーと、勝手に思ってます(*’▽’)
そのためにも、支部をある程度認知してもらえるように活動の記録をリリースしていきたいと思ってます!
今年入った人は、中々モチベーションが上がらないと思うけど続けてほしいですね。
高知は『たまらん』です(東海メンバー談)
なんかもう、すべてが別物。いまは休息期間だけど、せっかく勇気を出して夢源風人に飛び込んでくれたので、みんなで一緒に高知でまるまんてんを踊って『たまらん』思いをしたいです(*^^*)
チームメンバーも、見学者さんも、冷やかしさんも練習会でお会いできる日を待ってます(#^^#)
支部の練習?風景(‘ω’)
そんな流れで大好きになった、夢源風人。
夢源風人に出会えたから、本当によさこいが好きになった。もう一度、よさこいをしてみたいと思えるようになった。チャレンジする勇気や、生きる活力が湧いた。
いまでは、ぼくのココロの支えになっているし、大切な場所になっています。
だから、ぼくの活動を通じてだれか1人でも元気になってもらったり、よさこいを、夢源風人を好きになってもらったら、それだけでぼくの活動は成功だと思っています(*´▽`*)
たくさん役割があってワケわからないですけど、『目には見えない思いのつながり』を大切に、大阪でも東海でも他の地域でも、同じ『夢源風人』の1人として活動していきたいと思います。
以上、むねおでした。ながーーーい文章、読んでくださってありがとうございました。
また、練習で、飲み会で、祭りで、笑顔で会いましょうね(*^^*)
また笑顔で集まりましょう!
皆さんご存知、みっつんでございます。
ぴとぅができて19年。実は今のメンバーで1番古き時代を知っているのはこのみっつんでございます(°▽°)
第一期夢源風人が中之島まつりのステージ出演をした時に当時衝撃を受けた自分はぴとぅ演舞終わった瞬間チームにかけよって行き、入りたい!と伝えて入隊!ぴとぅから離れる事ができない人生が始まりましたw
20歳の頃の自分は人とコミュニケーションを取る事が苦手な人種で友達も少ない方。消極的な性格を変えたいと思っていた時の出会いでしたね(^^)
ぴとぅに入ってからは、たくさんのメンバーに会い経験を重ね、良くも悪くもこんなんになっちゃいました(๑˃̵ᴗ˂̵)
その当時の自分は変わりたい一心で活動していて、その気持ちは今でも継続している最中です!
できれば1年に1個くらいは新しい事に挑戦したいと思っています。
飲食店を開いた年、ぴとぅで漫才コンビを結成した年!
今年はLive配信に挑戦したりと!
今の自分を見てもらう事により、世の中の人に限界はないんだという事を今は伝えていきたい。
自分が挑戦している姿を見て、何かに取り組んだり、目標をたててもらう事につながったらな〜と思ったり、思わなかったり!
思わんのかい∑(゚Д゚)(笑)
いつまでも若くいる秘訣はとにかく新しい事に挑戦していきたい気持ちを持つ事!だと思っていますよ〜(o^^o)
どうもあきべーです。
BLOGひっっっっっっっっさびさに書きます。
タイトルは悩んだ挙げ句(3時間くらい)、友達(旧姓:別役)が2004年くらいにベログってのを「ヤプログ! 」で書いていたなあとおもてパクりました。懐かしい。(ただの身内ネタリーク)
ぴとぅでブログリレーなるものをしていて、そのきっかけによさこいを始めたきっかけ、ぴとぅに巡り合ったこと、そしてずっっっとぴとぅ的な話が書ければいいかなと思っています。多分、ぴとぅに入るまでで力尽きます。
どうぞちょっとだけお付き合いくださいませ。
僕が踊りに出会ったのは2002年。その当時の僕は、三重県鈴鹿市の鈴鹿高専という学校に在籍しつつ、数学や工学が好きなのに、運動していないことに飽きて柔道部に勤しんでいました。
高専についてちょっとだけ補足すると、高専は高校の世代からスタートする5年制の学校で、わざわざ中学校から5年制に進学するわけだからアクの強い人が集まりやすく、さらにうちのクラスは魅力的な人が多かったのでは、と今でも思っています。
2002年とはそんな高専で4年生のときです。クラスメイトが学祭の実行委員長になったんですね、その時の会議で言った一言が今につながっているんですがすごく鮮明に残っています。
「高専祭(学祭)が面白くない、これをすごいものにしたい。だからしよう。僕がソーラン節を踊りたい、なのでこれは決定でー、うちのクラスは基本全員参加やわ。だからそれ以外にも色々考えていこう(意訳)」
全学生1000人以上の学校で、このしれっといった欲望の発言が僕の人生に大きな影響を与えているんですね、この一言に引力を感じたんです。こんな身勝手でわがままだけど、やりたいことをストレートに伝えて、周りを巻き込む。そんなことがあるのかな!!って。数年後に思い起こせば「よさこい」ではないんだけど、踊りが自分の人生を確かに変えた一瞬だった。
懐かしい2002年頃(実は2003年の写真)。面影残ってますよね。
この一幕があり、そのまま踊るチームとして活動を始めたのが、三重県鈴鹿市の勝山組で、この勝山組の出会いは今も人生の節目に出てきています。人の出会い・つながりって本当にすばらしい。三重の学生チームの極津や天狗ぅ、鈴鹿の地元チームのめっちゃええやんずや、よさこい塾・ありがた屋にも知り合うことができました。「ありがた屋代表のめちゃさんに今同じ祭彩としてお世話になってるぞ」とか当時の僕に言っても絶対想像できない笑
勝山組を1年やりきったわけだけど、その時は高専を卒業したらどうしようか悩んでいる時期で、学祭で出会ったメンバーとか、もっと勉強したいなとか、色々絡み合って福井に進学することになりました。そして福井で「もっとよさこいしてみよう!」って思ったんですよ。
当時2004年だったんだけど今になって思ってみたら、よさこいって高知以外の土地ではマイナーな趣味ですよね。それでも全国各地でよさこいが出来る、踊れるというのはありがたい事で、人の縁の繋がりを感じました。
そこで第2のホーム、福井大学よっしゃこいに出会います。よっしゃこいは2004年の2月に出来たチームで、4月に加入させてもらいました。そしてありがたいことによっしゃこいの歴代メンバー(現役に至るまで)とは今でも親交があります。2004年に卒業しているので2020年とか干支一回りくらいやん(四捨五入)?。それでもつながってくれていることに本当に感謝しています。もちろん、道を切り開いてくれた先輩もすごい。じゅん(初代代表)、尊敬してるんやで。
福井に引っ越した2004年の6月、勝山組の友達からの連絡を期に突然の転機が訪れます。
友「高知で踊ってみやん?」(注:三重弁で高知で踊ってみないかい?)
→あ「いいね!行く!」
→友「じゃあ大阪でこの人に会ってきて!おれはおらんけど!!」
→あ「オッケー!!」
これが、僕と高知・ぴとぅとの出会いです(・_・)。
どうやって行く?どのチームで踊る?何日間?いくら掛かるの?
全部無視で、高知で踊るということが決まりました。やっと出てきましたが、その時に出会ったチームが夢源風人(ぴとぅ)です。2004年のこの瞬間から僕のよさこい人生は大きな転換点を迎え、2020年の今に至るわけです───。
この時点で、ぴとぅとして10年以上活動を共にする、かなみとも、たいがとも、はなともまだ出会っていません。
そして、2004年7月。よさこいおどりたーい!の気持ちだけでぴとぅのメンバーに会いに行くために福井から大阪へGoです。
その頃って、携帯電話はありました。メールもGMailとかではなく携帯会社のメールアドレスです。現Softbankが、今はなきJ-PHONEからVodafoneに社名変更されメアドはまだ”@jp-c.ne.jp”でした。懐かしいと思った人は仲間です。
GoogleMapもなく、LINEもなく、あるのは電話とメールだけ。顔もわからない人と待ち合わせ。社会人のチームと聞いていたけど、どんな人かなって思って、ヨドバシカメラ梅田に当時あった千房で待ち合わせ。なんかわからんけど探してたら”YOSAKOI SORAN”って書いたシャツを着た人が登場。あっ、この人やなって思いました。笑
それで初めて練習行くやん?踊れないんですよね。もう本当に。鳴子の鳴らし方もろくにできないし、動きのタイプも勝山組やよっしゃこいでやっていた事と全く違う。当時は動画配信もなかったので、VHSのビデオをもらって、自主練って感じだったなー。動画だけで踊りを覚えれる人、ホントにすごいぜ。覚えれたかというと、全く無理だったから、割と頻繁には大阪に通いましたよ。えぇ笑
当時は地方車手作りだったよ
そして初めての高知へ
いよいよはじめての高知。正直ね、正直あまりよく覚えていないんだ。爆発的な印象だったというより、ああ、ここ踊っていて楽しいな。いろんな人に会えたな。色んな人の力で、踊れているんだな、とかは強く覚えている。
でも、これのここがこうだった!とかあのチームがめちゃくちゃ良くて心奪われた!!ってのは覚えていなくて、一つだけ今もずっと覚えているのは
当時の代表のあかざわさんが、あまり前に出て喋ったりする人じゃなかったんだけど
「目には見えない思いのつながり」
って言葉についてぽつぽつ喋ってくれてたのは覚えているな。
他にも、最初にチームに紹介してくれたダックや、頑張ってくれていた副代表、遠方サポートをしてくれたインスト、その時はイケメンオーラ出していたみっつん、たくさんのぴとぅメンバー、一緒にぴとぅとして踊った夢道源人の子、東京学生生っ粋の子、欅の子、などいろんな人に会って、話して、踊って、いろんな人のつながりをこのチームは作ってくれたなと思ってた。
「目には見えない思いのつながり」
この言葉と集まるみんなが心地よくて、今も僕はぴとぅにいるんだなって思う。
こんな所で、うちの第一回のブログはおしまい。続きが書けるかは今後次第だけど、できれば書いていきたいな!見てもらってありがとうございました!
あきべー
こんにちは!
19期事務局のかほです。
事務局の中で特に文章が苦手なので緊張しながら、このブログを書いています。
拙い文章ですが読んでいただけると嬉しいです。
今回は夢源風人に入るまでのお話をしたいと思います。
私は高知で生まれ、生後6ヶ月頃から大阪で育ちました。祖父母が高知県にいるため、毎年の長期休みは高知に帰りすごしていました。1年の内1ヶ月以上長期休暇などで高知県で過ごすためか、私は高知の人という感覚で土佐弁を話していました。
また、毎年よさこい祭りを帯屋町筋まで見に行き、熱気溢れる踊り子やお客さんを見て、毎年夏は高知県に帰り、よさこいを観に行くことが習慣になっていました。その時はただ、よさこいを見に行くお客さんでした。
↓土佐けんぴを食べてる私(4歳)
私がよさこいを観る人から、踊るきっかけを作ったのは、母でした。
私が小学2年生の頃、母は地元の人のチームに所属し、よさこい祭りに参加しました。
小さい頃から観ていたよさこい祭りでしたが、いつもと違う母にドキドキ。
中央公園で観た母の姿は私に衝撃を与えました。いつもと違う母はとても綺麗で、とても楽しそうに踊っていた姿を今でも鮮明に覚えています。
母の演舞を待っている際、祖母がよさこい祭1年目の年から何回か踊ったことがあるということを知りました。「祖母や母がやっているなら、きっと私も大きくなったらどこかで踊るんだ」と踊りたい気持ちが生まれました。「踊りたい」と母に伝えると、「お金も時間もかかるから、自分でアルバイトをできるようになってしなさい」と言われました。きっと勢いで踊りたいと言ったことを母に見抜かれていたのでしょう。
↓よさこい祭りの帰りに
高校生の私は一足早く大学受験が終わり、11月から人生初めてのバイトを始めました。
そして、2015年12月8日。給料の出る1週間前、人生初の給料を何に使うかを考えていました。
「あ、私よさこいがしたい。」
自分の部屋にいた私はリビングにいる母に「私よさこいする!!」と、伝えチームを探しはじめました。
高知県のチーム、大阪のチームたくさんのチームが出てきて、とっても悩んだのですが、
夢源風人の万華鏡の追手筋の演舞をYouTubeで見た際に強く惹かれました。「ここで踊りたい」どんな人がいるんだろうと何個か動画を観てインパクトに残っていたのが追手筋とバサカニで踊っていた大声ダイヤモンドです。
よさこい以外にもこんな風にチームのメンバーと仲良く活動してるなんて素敵だなと思った私はすぐにメンバー登録を送りました。
以下送信内容↓
「一度決めたら最後までやりきります笑 ちっちゃい頃からよさこいに憧れていたので 練習から真面目にやっていきたいと思います‼ 参加できるところは参加していきます 週に一回は参加したいなぁと思ってます 結構活発な方だと思います😁 あとめっちゃしゃべります笑 よろしくお願いします😌✨✨」
今思うと全然かしこまってない、高校生らしい文章なのかなと思ったり…笑
母によさこいをする!と伝えてからチームに入るまで約1時間の出来事です。
母に1時間で決めたことを怒られましたが、今では笑い話です。
万華鏡の追手筋や大声ダイヤモンドを見たのもきっとなにかの縁で繋がってたんだなと思います。
次回はインスト・事務局編です。
次こそは感動的なブログを書きたい😭
万華鏡動画↓
https://youtu.be/3vjy-5mpJeQ
大声ダイヤモンド
https://youtu.be/mr1lWpjm0lQ
こんにちは。
19期事務局のかなこです。
ピトゥタイムズでいつもお世話になっております。
「ぴとぅとの縁、つながり」を綴るこのブログ企画。
自分の過去をおおっぴらにするなんて、大変こっぱずかしいのですが。
いっちょ、やってみたいと思います。
自分の経験や繋がりが、また誰かの繋がりになれたら嬉しい。
先日ぴとぅのメンバーさんからサプライズで、モザイクアートを頂きました。そこに隠された私へのメッセージは『歩く太陽』。なんともったいないことば。
今でこそありがたいことに「笑顔が素敵」「顔がうるさい」とよく言って頂けますが、20歳頃までそれはもう、人見知り全開で笑うことがほぼ無く、どの写真を見ても真顔で暗い影が写る子でした。(あまりにも暗くて怖いからここには載せない☆)
そんな大人しくて暗い子が、初めて強く「これがしたい!」と感じたのが、中学生の時に沖縄で見たエイサー。
元々バレエや日本舞踊を習って舞台で(真顔で)踊る機会も多くありましたが、目の前で繰り広げられる迫力ある演舞に、「私がしたいのはこれだ」と目が離せませんでした。大きな太鼓の音に、笑顔で身体を大きく動かして楽しそうに踊る、お兄さんたち。かっこよかった。
今でこそエイサーを踊るチームは日本や世界各地にありますが、当時は沖縄以外にはあまりなく「いつかあんな風に和物で激しく踊ってみたい」と感じたのが始まりです。
そんな想いを胸に秘め、暗い自分もどうにか変えていきたいと、いろんな活動をし始めた学生時代。
2008年、京都の新風館。イベントのボランティアをしている時に、会場のステージで踊りが始まりました。
着物風の衣装を着て、アップテンポな曲調に加え激しい踊り、そして聞き覚えのある声……ん、声???
そこで踊っていたのは『京炎そでふれ!チーム大曇天返し』、そのMCを担っていたのが当時知り合ったばかりの友人でした。
大曇天返しPV
(京炎そでふれ!ってなんじゃいな?って方はまた聞いてください。)
そこから、私の人生は大きく変わり始めました。仕事で抜けた時期もあったけど、大曇天返し(以下どんでん)にいた期間トータル6年。
話したらこれまたブログ1個できるくらい長くなるので省きますが、踊っている姿を見たうちの両親が「あんたってあんなに笑顔で踊れるんやな!」と喜んでくれたことが、とても誇らしく嬉しかった。
暗い自分を、少しでも変えることができたと実感したことばでした。
どんでんで、踊りの楽しさ・踊りがもたらすエネルギー・そしてそれは見ている人の心を晴らし、その人の向こうにいる大切な人たちまでをも元気にする、ということを体感しました。
もっと踊りを学びたい
もっと多くの人と繋がりたい
もっと多くの人の心を晴らしたい
どんでんを卒業したメンバーが次々によさこいチームに入って高知に向かっている姿を見たり、映画『君が踊る、夏』の影響や、友人が『おどりんちゅ』というチームを立ち上げたこともあり、よさこいというものは少しずつ身近になってきました。
そして2度目の転機。
2015年6月。仕事で国際交流プログラムのスタッフをしていると、なにやら今晩よさこいチームが踊りに来るとのこと。
異文化交流の為にと丁度どんでんの衣装を持参していた私はそれを着て、どれどれと参加者のみんなと一緒に客席へ。
そこで演舞を披露していたのが、夢源風人でした。
これまで踊ってきたどんでんとはまた違った魅せ方。
「いつか、こんな風によさこいを学びたいなぁ」と素直に感じたのをはっきりと覚えています。
その後は当時のメンバーさんと一緒にうらじゃを踊ったり、はなさんに「他チームの衣装着てうらじゃ踊れるこの人…誰」って目で見られたり、楽しかったです。ええ。
でも当時は入会には至らず、チーム名も「漢字4文字の読み方分からんチーム」という認識で、1年が経過した翌年2016年のこいや祭り。
ぴとぅがパレード賞を受賞し、メインステージで受賞演舞を踊ったあの年です。
元どんでんのメンバーが踊っていたこともあり、たまたま見ていた演舞。(昨年見たチームだとはこの時まだ気付いておらず)
演舞が始まった途端、中学生の時にエイサーで感じた衝撃と同じものが身体を走りました。目が離せない。
大勢のお客さんの一番最後列で見ていた為、ステージ上で踊るメンバーさんは本当に米粒のよう。けれど、満面の笑顔で踊る白い歯がはっきり見えて。
こんなに楽しそうに踊るチームどこ!?と改めてパンフレットを見て、そこで初めて昨年出逢っていた『夢源風人』というチームだと気付きました。
よさこいチームを探していた私は隣にいた友人に「ここ楽しそうやなぁ…」と呟くと「うん。かなこはぴとぅさんが合うと思う。」とはっきりと言ってくれ、そのことばに背中を押され、見学に行ったのでした。
(↑初めての見学後に事務局さんに送ったメール)
そこからは、あれよあれよと世界が広がり、文字通りぴとぅやよさこいを通して、日本中や世界の人と繋がることができました。
やいろの皆さん(上)とスウェーデンで活動している白夜よさこいチームの皆さん(下)
高知のよさこい祭りに初めて参加した時の充実感としんどさは、きっと忘れないだろうなぁ。
ことばを交わさずとも、沿道のお客さんと会話ができた瞬間が確かにあって。そして『踊りは人の心を晴れにできる』と確信を持って言える体験が、高知には溢れていました。
ぴとぅと出逢い、高知に行き、学んだことの多さといったら。踊ることももちろん楽しいけれど、その踊り子を支えるスタッフも、とっても楽しいよ。またやりたい。
私の愛する海遊館に展示されていることばです。
ぴとぅは、求めれば求めるだけ応えてくれる人と環境があるなと個人的に感じています。
また、チームに居る目的はそれぞれであっていいと思っています。踊ることが好き、メンバーが好き、衣装が好き、雰囲気が好き。
ただ、どんな形であれども、今ぴとぅと関わってくれているのならば、私は「このチームに入ってよかったな!楽しいな!」って思える場所にしたい。
だってせっかくご縁があって出逢えたのだものね。
読んでくださっている皆さんもきっとそれぞれの選択や繋がりがあり、今があるのだと思います。
人見知りで笑えなかった私が、踊りを通して、自信を持って笑えるようになったみたいに。
ぴとぅと関わるこの瞬間が、皆さんの素敵な未来に繋がりますように☆
はじめましての方もそうでない方もこんにちは。
19期事務局のはじめです。
「ぴとぅとの縁、つながり」をつづるこのブログ企画。
これまでかなり前からぴとぅと関わってきたメンバーの文章が続きましたが、僕はぴとぅ歴=よさこい歴=3年弱とちょっと違うタイプです。
なので、古い歴史を振り返ることはできないのですが、踊りとは縁もゆかりもないアラサーの男がよさこいと出会い、ぴとぅと出会って事務局に入るまでの話をまとめてみました(ぴとぅを知ったキッカケはこれまで話すと長くなるのでネットで検索したことにしてましたが、今回真相を初めてお話しします笑)。
始めたばかりで不安な人や、これから入ろうかなと迷ってる人や運営に興味ある人などなどのみなさんに何かしら参考になればうれしいです。
なお、忙しい人は見出しだけ拾って読んでもらえればストーリーが何となく伝わるようになっております!
よさこいを知ったのは2010年に映画『君が踊る夏』を見たことがキッカケ。
その後付き合うことになる女の子との初デートに行ったのですが、なぜこの映画をチョイスしたのかは覚えていません。何かの導きだったのかしら。
映画の終盤。
色々あったけど、溝端クンも含めてチーム全員でよさこいを踊るシーンがとても印象に残っていて、いつか本物を見に行きたいなという気持ちがココロの片隅にありました。
時はたち(映画を見に行った彼女とも別れ)、2017年8月についにその時がやってきました。僕は昔から1人旅が好きで、毎年どこか行ったことのない土地にテーマを決めて乗り込むのですが、2017年はそのテーマを
「四国2大祭りめぐり」
に設定したわけです。
高知よさこい祭り→徳島阿波踊りをはしごするというありがちなプラン。
一回生で見られればOKという軽いノリだったので、どんな会場あるとかは特に調べずにぶっつけで高知へ。
1日中色んなチームをはりまや橋商店街で「すごいな~」とか思いながら見ていたわけなのですが、当時「どこいこサービス(どの会場でどのチームが踊っているかわかるサイト)」の存在を知らなかったので、よさこい大賞とか取っている有名チームはどこで見れるのかわからない。
そんな時、はりまや橋筋商店街の近くを「とらっくよさこい」と書いたトラック(地方車という名前は知らなかった)が通ったのです。
歴代受賞チームの表は事前にネットで軽ーく眺めていて、「とらっく」という変わった名前のチームが一時期上位入賞しまくっていたことや、最近は「ほにや」というところが圧倒的に強いということくらいは記憶にありました。
「せっかくだから有名チームも見たい!」
と思って、信号待ちしていた「とらっくの車」の方に走って近づき、運転手の人に
「次はどこの会場行くんですか?」
と聞いたところ、
「中央公園やき(語尾はわすれました笑)」
とのこと。親切な高知の人々に聞きながら夜の中央公園へ。
そこで見た夜の巨大ステージと演舞が僕の人生を大きく変えていくことになります。
とらっくの車に話しかけた道路
本祭2日目の夜の中央公園は受賞チームの演舞の連続でした。
とらっくよさこいを無事見た後に登場したのが名門・旭食品。
2017年金賞受賞演舞・鯨波(とき)の声(youtubeに飛びます)。
こういう感じになりました(イメージ)
ちゃんと踊りを見たことなんてない自分でもすごさがわかる圧巻の演舞で、言葉が出なかった。ここまで1日見ていたよさこいとは全く別の物に思えるほどの衝撃を感じました。
代表の記事や虎日記にも似たような場面がありますが、誰しも一度は通る道なんでしょうか。
大阪に帰った後、旭食品は女性のみで構成されるチームで、メンズは入れないと知ってとても残念に思ったものです。
最後に登場したのが、言わずと知れた十人十彩(知らなかったけど)。
演舞も感動してその後、旭食品と同じく100回以上動画見ることになるわけなのですが、印象に残ったのはお祭り終了後のミーティング。
総踊りまで見終わって中央公園を去ろうとしていたその時に、さっきまでステージで踊っていた皆さんが集まって終わりの会をしてたんですよね。
代表の人や振付師らしき人やリーダーっぽい人が順番に胸アツなお話して、大賞受賞をみんなで喜んでるわけです。青春ですよね。
一生懸命練習してきた日々(してないけど)が思い出されて、見ている自分も感動。
十人十彩のミーティングに青春を感じました
その後中央公園から人が引き始めたので、夜の高知を散策。
信号待ちをしていると衣装を着た女の踊り子さんに高知駅への道を聞かれます。
(高知人がなぜ道を!?)
と思ったけど、踊り子さんとコミュニケーションするチャンス。
道は把握していたので、駅まで送っていくことにしました(積極的)。
そしてこの出会いが本題のぴとぅに繋がるキッカケとなったのでした。
話しながら聞くところによると、
・大阪在住の女子大生
・でも東京のチームに参加
・夜行バスで大阪に帰る
そして、過去にも高知で踊ったことあるよさこい事情通だと判明。これ幸いと色々質問。
どうやら、大阪にも高知まで踊りに来ているチームが複数ある模様。
事情通の彼女は各チームの特徴をわかりやすく説明してくれます。
ちなみに「ぴとぅ」の説明は印象的でよく覚えていて、
「ワイワイ系と見せかけたガチのチーム」
「ぴとぅで一番うまい子はアタシの後輩」
とのことでした笑
2つ目はマウンティングされてるのかな、、、
ともかく、十人十彩を見た直後で、PL学園的な死ぬほど練習してきました!
みたいなノリにあこがれていたのでガチなのはむしろ好ましい。
でも、こちとらダンスどころか体育で(保健のテストは高得点なのに)10段階中6以上は取ったことのない低スペック運動神経の持ち主。
ちゃんと練習についていけるのかが気になりまくり、事情通の踊り子さんに質問。
はじめ:「初心者でも入れるんかな?」
事情通:「オーディションとかないし、初心者でも鳴子からしっかり教えてくれると思いますよ」
この時点でよさこいを始める決断はしていなかったものの、貴重な情報が、そしてぴとぅとの縁がこの事情通の踊り子さんからもたらされたのでした。
迷子の踊り子がぴとぅへの縁を運んできてくれました
阿波踊りを見て、大阪へ。
帰ってきても高知の光景が頭から離れず、毎日毎日youtubeでよさこい祭りを振り返っていました。
youtubeの動画ってほとんどカメラが固定された動画なんですよね。
色んな画角の動画も見たいじゃないですか。
というわけで、高知県商工会議所連合会さんが販売している公式DVDまで購入することに。※ちなみにここから購入できます
早速このDVDを見るわけですが、Youtubeと違って各演舞の前にそのチームの振付師と作曲家と都道府県名とかが表示されるんですよね。
で、何回も見ているとよく出てくる名前を覚えちゃうわけです。
ここのチームもさっきチームもこの人が振付なんや!という感じで。
特によく見たのが
「田村千賀」
という人でした。
勝手なイメージでめちゃめちゃ怖い鬼のような顔をしたスパルタコーチみたいな人を想像してました(千賀先生すみません笑)。
ここから3年もたたないうちに、「DVDの中の有名人」と飲み会でご一緒させてもらうことになるなんて人生わからないものです。
公式DVD。
よさこい祭りから1か月後、やはり見ているだけではなく踊る側に回りたい気持ちが抑えきれずに2017年9月20日、事情通の踊り子さんから聞いていた「夢源風人」の体験会に参加。
大阪城公園の練習場所に行くと懐かしの鳴子の音が聞こえてきて胸が高鳴りましたよね。
今同じ事務局メンバーをさせてもらっているつもりさん・たいがさんから規約やら高知のことやら色々と教えてもらう中で、どうやら事情通の踊り子さんが言っていたイメージは大体合っていることがわかってきました。
そして、チームの人の会話の端々に「チカセンセイ」という名前が聞こえてきます。
はじめ:「チカセンセイって田村千賀ですか??」
つもり:「そうそう!(心の声:なんで知ってるんや)」
なんと、想像以上にガチのチームらしい。
肝心の踊りは「ハレ晴れ」のよさこい節の部分を振り落としてもらったのですが、短いフレーズなのに全然覚えられない&体がついていかない><
それでも当時のインストのY君が優しく教えてくれたのと、たいがさんの言っていた「うちは過保護やから」というフレーズ、そして「あの」田村千賀の振付!というわけでかなり前向きな気持ちで体験会を終えました。
「この環境なら自分でも続けられるかも」
と思う一方、やっぱり不安な気持ちもあって4日間悩みました。
悩みすぎてその4日間は1日に8時間しか眠れなかったほどです。
悩んだ結果、体験会で「前向きに考えてるので、お世話になることがあればよろしくお願いします」とあいさつした時に、現代表・かなーみさんからの
「お世話になろう!」
と言ってもらった記憶の中の声に後押ししてもらってハレてぴとぅメンバーとなりました。
ぴとぅライフはここから始まりました
ご縁があって登録してからは体験会で聞いていた通り、過保護体制にお世話になりまくりましたよね。
例えば、
・ハレ晴れのイントロ(約20秒)の振り落としに練習会4回(3h/回)かかる
・11月の四日市よさこい祭りに間に合うようにインストMさんの自宅で特訓してもらう
・18年ココロ咲く夏でも、補講をたくさん開催してもらう
・「先生練」で千賀先生の生指導を受ける(実物はとてもやさしいお顔の先生でした^^)
・能登、高知と遠征のバスやホテルも全部チームで手配してもらう
・特に高知では給水や救護体制(初めての高知は足の裏に穴があき、2回目の高知は熱中症で倒れこみました)の整いっぷりには感動しましたよね
・勤務先のイベントに依頼演舞で来てもらう
などなど、あげればキリがありません。
貴重な時間を割いてくれた当時の事務局さん・インストさんには感謝しかないですね。
そして時はたち、↓の写真のようなめざましい成長(!)をとげる中である信念を持つようになりました。それは、
何かを始めるのに遅すぎるということはない
というもの。
【BEFORE】デビューの舞。必死過ぎて笑顔の余裕がない。
【AFTER】保護のおかげで(時々)笑顔で踊れるようになりました
見学で見せてもらった演舞は、とても自分ができるようになれるものには思えなかったけれど、レベルはともかく2か月後には隊列に入って踊らせてもえたし、その8か月後には高知で3日間踊りきることもできるようになりました。
強い思いを持って続けていれば応援してくれる人がいると教えてくれたのがぴとぅでした。
ぴとぅには小・中学生のメンバーもいたりして、
「この子たちみたいにもっと早くよさこいに出会ってたら振り覚えるのもこんなに苦労しないんかなぁ」
なんて思ってたこともありますが、千賀先生の
「1番いいタイミングで(よさこいに)出会ってるんです」
という名言を聞いてからはそう思うようにしています^^
「人と比べるんじゃない、比べるのは昨日の自分、1日前の自分、1分前の自分(By Chika Tamura)」
というわけで、個人的な話ですがコロナで踊れない今の時期に今まで全然やったことのない勉強を始めてみることにしました。
きっと苦労するんですけどこんな難しい踊りを0から踊れるようになったんだからきっと大丈夫だと思ってます。
2017年に登録した時に、事務局に送ったメールを見返すとこんなことが書いてありました。
さて、いろいろ考えた結果、登録させていただこうと思います。
持ち前の運動神経のなさで大きなチームの足を引っ張るんじゃないかと
不安なのですが、最初は過保護体制に甘えさせていただいて、1日も早く
保護する側に回ることができればと思います。
この気持ちはずっと持ち続けてまして、ちょくちょくお祭り担当や忘年会スタッフとかは手伝わせてもらっていましたし、昨年代表のかなーみさんに事務局に誘ってもらった時も即答こそできなかったものの、ほとんど引き受けることは決めてました。
「目には見えない思いのつながり」ってよく言うじゃないですか?
「思い」って色んな解釈がありますが、僕の中では「やさしさ」だと思っています。上に書いた「過保護」は全部やさしさから来てるものなんじゃないかと。
これまで公開されている先輩たちの記事を読んでいても、さらにその先人たちからのやさしさを受け継いでこられたんだろうなーと感じます。
渡る世間は鬼ばかりな世の中でこういう環境ってかなりレアだと思うんですよね。見逃しているダークサイドがどこかにあるのかもしれませんが笑
代表が「大切な場所は自分で守らないといけないと思う」と言ってましたが、19年間受け継がれてきたやさしさをこの先もつなぐお手伝いをちょっとでもできればなと思ってます。
とは言え、ぴとぅ歴もよさこい歴も浅い自分一人でできることなんて知れてますので、ぴとぅの歴史を作ってこられた事務局の先輩やチームのみんなの力を貸してもらって、今はちょっとアレですけどこれからは一緒に楽しい時間を作れたらいいなと思っています。
長文最後まで読んでくれてありがとうございましたm(__)m
MCの団扇持ってる写真
よさこいとの出逢いを綴るって、超ハードな作業。。。
私のコトバに興味がある人なんて少ないとは思いますが、ココロを込めて綴ります。
長くなりそうなんで、どうぞゆっくり時間がある時にお付き合いください。
第26回中之島まつりポスター
私がよさこいに出逢ったキッカケを語るにはやっぱりここからだな、と思います。
現在39歳、2人の子持ちの関西のおばちゃん全開の私ですが、そんな私にも女子高生という可愛らしい時はありました。
芸能文化科という上方芸能を学ぶという特殊な高校に通い、体重75キロという巨漢の割に楽しい学生ライフでした。
授業の一貫である落語家さんたちのお祭り(毎年9月開催の彦八まつり)にお手伝いに行き、そこで中之島まつりの実行委員会さんと出逢います。
当時は演劇とダンスに没頭してた私。
『中之島まつりのステージやらしたるから一緒に祭り作ろう』
とのお誘いにほいほいくっついていきましたwww
そうして初めてお祭りの運営に携わったのが、1996年、15歳秋のこと。
中之島まつりでは、たくさんの経験をさせてもらいました。
子供ステージのステージ長に始まり、メインステージのステージ長、飲食ブースの店長、そしてお祭り全体の事務局長。
当時は中之島まつりが私のすべてでした。
そんな生活の中、新たな出逢いが訪れました。
第1回こいや祭りガイドブック
中之島まつりの事務所がほぼ自宅化してた私。
ある日、めちゃくちゃ美人の大学生がやってきました。
はい。第1回こいや祭り実行委員長の野澤さんです。
なにやら、大学生が実行委員となって、大阪で踊りのお祭りをしたいらしい。。。
『応援しよー!』って訳で、私の自宅化していた事務所は、急に美男美女大学生が毎日真剣に話し合う事務所となりました。
当時まだ18歳?だった私は、どう考えても自分より大人びてる同世代の人たちに圧倒されっぱなしでした。
そして、迎えた第1回こいや祭り。
私はブースからステージを見てました。
もともとダンスをやってたこともあり、ウズウズしっぱなし!笑
とにもかくにも無事に第1回こいや祭りが終わり、さぁ、次は自分たちの祭りに没頭!と日常に戻ったのです。
しかし、私と同じようにウズウズしてた人が他にもいました。
私と同級生のお父さん。。。
《もりしげさん》です。
こいや祭り実行委員としてよさこい普及活動
ある日、急に《もりしげさん》に『つもり、踊るん好きやろ?城公園行こうや』と誘われました。
よくわからないままついていくと、そこにいたのは《ひめ》と呼ばれる綺麗だけどサバサバしてて少し怖いwww方。
挨拶もそこそこに、急に振り落としが始まりました。
【こいやの舞】ともう1曲(諸事情により曲名は出せません)でした。
なんと数時間でまるまる2曲の振り落としを受けました。
で、、、、
はい。ハマりましたwww
もっともっと踊りたい!踊り子のみんなと仲良くなりたい!
そんな思いが溢れました。
が!
私は祭りを作る側の人間だ!という変なプライドが邪魔をし、メンバーにならず、中之島まつりやこいや祭りの実行委員をメインに活動していました。。。
カウントダウンイベントでこいや祭り実行委員と
ぴとぅとの出逢いの章なんですが、、、実はあまり覚えてないんです。。。
いつの間にか振り落としを受けていました。確か、何かのイベントにだけ、スポット参加することになったのがキッカケだと思います。
だから、最初に振り落としを受けたのは総踊りの【花祭り】でした。
そんなに練習にも参加できなかった私にもみんなすごく温かかった。
なんだか青春だった。
そんな空気感だけが鮮明に残っています。
財政難なチームの為に、フリマを開こう!とみんなで商品を持ち寄ってフリマに出品したり、こんなチームにしたい!とか、よさこいの魅力とか、私の知らない世界を聞かせてもらいました。
《ほりちゃん》《あかちゃん》と気軽に呼んでた気もするけど、当時は本当に気楽に参加してました。何も役には立てなかったけど、裏方として思い付くことは言ってた気もします。
活動に行ったり行かなかったり、、、当たり障りのない、居ても居なくても同じな活動をしてました。
そんな私がぴとぅにどっぷり浸かったのは2005。
同じ中之島まつり実行委員だった《まるさん》が代表をするとのことで、誘ってもらって、真剣に練習しました。
振りは、これまた中之島でご一緒の《みっつん》。
この年は頑張って練習に行きました。
初めて衣装も買いました。
だけど、高知のよさこい祭りには興味がなく←今考えるともったいない。『あんなに暑いところで踊るなんて信じられへん!』の殻から抜け出せず、衣装を着て踊ったのは寒い冬の季節のみwww
EXPOまつりんぐ
両肩が出てる衣装はかなり寒かった!
あ、この2005に《はなちゃん》がぴとぅにやってきました。
今とほとんど変わらない、超超可愛くて踊りも上手でストイックで、はなちゃんと初めて会った日は今でも鮮明に覚えています。
その後2006は廃人になり、2007にたった1回だけ復帰しました。
明石やったかな、、、?
振りもままならない状態で、産んだばかりのりょうやを連れて参加し、見事に気持ちが敗北。。。
そこからは子育てに追われる日々となりました。
雨の神戸よさこい
りょうやが幼稚園の時にとあるキッカケで、またよさこいとご縁することとなりました。
【よさこいチーム天舞音】です。
地域の小さいお祭りに参加してる小さいチームかと思っていたらビックリ!
いろんなお祭りに参加してて、私は久々に夢源風人の演舞を観ることになりました。
数年振りに見たぴとぅはすごいことになってました。
こいやプレでのかなみとここちゃん
コトバでは表現しにくいけど、笑顔溢れてる数がめっちゃ増えてて、洗練された演舞で、キラキラしてました。
久々過ぎて声もかけにくかったけど、ある年のこいや祭りで、ぴとぅのブースに行って、『久しぶり!』と勇気の一言。
すると、私の心配はどこへやら、普通に話してくれる仲間がそこにはいました。
りょうやが4年生になる年、私は決意。
私もぴとぅで踊りたい。仲間になりたい。
そこで、《かなみ》に『子供らいてるし、高知には行けないけど、私、復帰しても良いかなぁ?』と連絡しました。
みゆかを産んだ後もずっとずっとぴとぅに居るかなみだけが頼りでした。
お返事は『OK!』
(ノ´∀`*)
メンバーに新曲【あふさかんシンフォニー】御披露目となったクリスマス忘年会より、復帰となりました。
心機一転、私は本名で《かつまま》と登録したのですが、
そこには《かなみ》《はなちゃん》《みっつん》《ポッター》《あきべ(名前だけ知ってた)》《たいが(ぴとぅではないところで知ってた)》などなどが私を《つもり》と呼ぶので、あきらめて登録名は《つもり》を通すこととなりました。
あふさかんシンフォニー
あふさかんシンフォニーは家族で私だけが参加。まだまだ小さい子どもたちを連れて練習に行くことは叶わず、始めに開催された振り落とし合宿だけが頼り。子どもたちを退屈させないように工夫しながら皆さんにも協力してもらいながらのスタート。
ほとんど練習に行けずでしたが、かえる祭りや神戸よさこいなどに参加しました。
日頃の練習には1人で参加してましたが、イベントには子どもたちを連れてました。
そして、大阪大会。
大賞は逃しましたが、ぴとぅは金賞でした。
それを見たりょうやが『ぼく、来年ぴとぅ入ろうかな』と!
嬉しかった。本当に嬉しかった。
みんなの笑顔、温かさ、その全てが4年生のりょうやにも届いたんだ!と実感しました。
初めての高知のよさこい祭り
りょうやと私の親子ぴとぅ初演舞は
【ハレ、晴れ】
そして、家族みんなで、初めての高知のよさこい祭りに参加しました。
まさに、ハレ舞台でした!
その後は皆様ご存知のように、りょうやにとってよさこいとの出逢いは人生の大切な宝となっています。
りょうや、ハレ晴れ
りょうやと私がぴとぅに明け暮れる毎日。当時まだ年中さんだった妹のここちゃんにとってもぴとぅの時間が楽しくなるように色々と工夫をしていました。
ここちゃんは、先ほど出てきた地元のよさこいチーム【天舞音】に所属しています。
ここちゃんの口癖は『私は天舞音が忙しいからぴとぅは無理!』ですwww
よさこいチーム天舞音
そんなここちゃんが、2019年(ここちゃん1年生)の高知で帯筋のみんなの演舞を見ながら『20周年はここちゃんもぴとぅで踊るで!』とあらためて真剣に言ってきたのです。
まさかの、家族3人で!嬉しすぎです。
本当なら、来年が家族デビューでしたが、1年延期。
悔しくも、りょうやの高校受験と重なり、みんなと一緒のスタートは難しいですが、身体を壊しまくっている私にとっては最善の体調で参加できるように調整する時間が増えました。
りょうやも4月からスタートでもみんなと高知に行く!受験時期は仕方ない!と腹をくくっています(>_<)
家族でよさこいカウントダウン
ぴとぅは、あったかいです。
ぴとぅは、やさしいです。
ぴとぅは、げんきです。
ぴとぅは、じゆうです。
ぴとぅに出逢って人生は変わりました。
ぴとぅに出逢って人を想う事を知りました。
ぴとぅに出逢って自分に優しくすることを知りました。
昨年の高知で、ホテルのテレビを通してみんなを見た時、ココロから、
【みんなの笑顔が私の郷です】と思いました。
たくさんのありがとうと
たくさんのかんどうと
たくさんのえがおがある
そんなチームに一緒に居れることが
本当に幸せです。
みんなからのお手紙
徒然なるままに、自粛生活、パソコンに向かいて、心にうつりゆくぴとぅのことをそこはかとなく書きつくれば、何か伝えられるものがあるというものだ。
なので、事務局が書くと聞くnoteというものを、人見知りの私もしてみようと思って書くのである。夢源風人に出会ったある年の5月を書きはじめとする。そのぴとぅとの次第をほんの少し物に書きつける。
何か意味のあることを書こうと思えば思うほど、硬い文章になって、面白くなくなってしまう。興ざめ。なので、構成も文体も整えないまま垂れ流します。まもなく約15年前にタイムスリップいたしまーすっ☆
心の準備は出来ているかい?
さぁ!私と一緒に時空の旅に出たい方は、このままスクロール☆
現実世界に帰りたい方は、戻ってね、バイバーイ!
時空をつかさどる、よさこいの妖精とリアルおとど(知らんけど)
何から話せばよいかと思案しまして、まずは夢源風人に出会う前の背景をほんの少し。
私がチームに出会う少し前のに、母が「こいや祭り」というものにハマり、妹もハマり、、、我が家の会話が「よさこい」に浸食されていっておりました。
また、2005年のよさこい祭りに、当時小学5年生の妹「まつりちゃん」が夢源風人から参加することになっていましたので、チームの存在と「夢」「源」「風」「人」と書いて、「むげんかじぴとぅー」と読むのだなぁということは知っていました。ただ、そんなに興味はありませんでした。
その頃の私は、母のお願い(命令?)により、地域の子どもたちに南中ソーランやくるくる丼を教えておりました。地元の盆踊りで子どもたちが披露するために一生懸命頑張ってる子どもたちは可愛かったですね。
子どもたちのことは好きだったので、それほど苦ではなかったのですが、私は踊りたいわけでもなく、、、また母や妹に関わる若い人たちが基本的にテンションの高い人たちだったので、「よさこい」はあまり好きではありませんでした。
・
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何この前置き(・_・)
夢源風人との出会いは2005年の中之島祭り
今、みんなと練習している剣先公園がきれいに生まれ変わる前。
そこに作られたステージで、男女とも右肩を出してた紺色の衣装(2004、想いの花火)を着た大人の人たちの演舞。
それまで、地域の子どもたちが盆踊りとかで踊りを披露するために、教えていた踊りとは全く違う、鳴子を持って笑顔で楽しそうに踊る、「大人」に驚き桃の木20世紀でした。驚きももの木20世紀 – Wikipediaja.wikipedia.org
こいや練の定位置は、みんなと触れ合わない「隅っこぐらし」
夢源風人というチームに出会った一年後、5月の上旬にチームに加入しました。(一年間、何しててん!って突っ込みは無しで。記憶にないから。多分、色々あったんだと思う。きっと。)
私がチームに加入したころは、まだ月謝制だったと思うけど、記憶力が基本的にニワトリなので、、、だれか補足をお願いします。
加入当時のぴとぅメンバー30名ほど。練習会には20名来たら多い方っ!というようなチームでした。(今じゃ考えられないでしょ?)練習場所は、水曜日の大阪城公園、金曜日の春日出中学校と今と一緒でした。
その頃の記憶を頭の中の引き出しを探してみると、必ず先に見つけてしまうものがあります。それが「こいや練」こいや祭り公式サイト大阪の夏を彩るこいや祭りへ!www.koiya.net
その頃は活発に行われていた「こいや練」(毎週火曜日19時~21時、大阪城公園の噴水前に集合な!!って感じ)
私よりも前に、よさこいに浸かっていた母と妹に連れられて、私も毎週火曜に大阪城公園に赴いていました(嫌だった)
チームの中でも言葉を発しないのに、若さウキウキの人たちと話せるわけないでしょう?だから、私はみんなの輪から離れたところで時が過ぎるのを待ってました。(すげぇ変なやつ)
そんなやつでも同世代の人は絡んでくれたんです。人との関わりが嫌いだったけど、その時間は楽しかった。その人たちには本当に感謝。2号くん、やまと、辰村、たむたむ。
毎年高知でスタッフをしてくれている2号くんとは、その頃からの付き合いなんです。(私、甘えきってる。何でも受け入れてくれるから)
ちなみに彼と「湯豆腐を食べにいこうね☆」という約束は14年経った今でも果たされていません(・_・)
2号(若かりし頃)、たいが(痩せてた頃)、さとし(今とほぼ一緒)
同時加入はハルくん。
さて、「こいや練」に話を持っていかれましたが、ちょっと戻ります。上にも書きましたが、私は2006年5月の1週目の金曜日に夢源風人に加入いたしました。その当時を知る人は練習以外は話をせずに小説ばかりを読んでる文学少年と思っていたと思います(違う)
同日加入がもう一人いました。みんなご存じ、ハルくん。(めっちゃイケメン)
元々は勝山組(あきべーくんの同期)で、学校の関係で大阪に戻ってきたので、大阪のよさこいチームを探してたみたいです。1.2ヶ月、チームの体験をしていて、やっと加入したという優柔不断さも彼の魅力☆今は「よさこい塾・ありがた屋」のメンバーです。
彼とは2007年に「中央スタッフ※」として一緒に頑張ることになるのです。
※中央スタッフ:練習会やイベント等を企画運営するスタッフで、花・ハル・たいがの3人で頑張っていました。たいが初めてスタッフをするの巻。
かなあみ代表(2007年当時)が新たに設置したスタッフでした。1年間、楽しいも悔しいも経験して過ごせたことが今の私を作ってくれているんだろうなと常々思っています。
余談の中の余談ですが、人見知りなのに、自己肯定感は人一倍高かったので、何もわからず「何かしたいです」と代表に直訴したのもエモエモのエモですね。(エモい)
また、話が変わりましたね。伝説の中央スタッフについては、2007年の章で触れたいと思います。
顔がいい。(無許可)
練習会には、まじめに通っていたけど、言葉を発することは、ほぼない。
晴れて、夢源風人メンバーになったわけですけども、当然、上記のように人と話すことがありませんでしたので、当時の記憶はあまりない。(・_・)だって、ニワトリだもの。とらを
ですが、当時の振り班の「みっつん」「おおにょさん」「くまっきー」「はな」「はんな」の皆様をいっぱいお声かけをしてくださったのを覚えておりますが、、、あまり話しませんでした。(ごめんね、青春☆)
それでも、自分より大人な人たちに囲まれるのは、ちょっと地元のような感覚があり、居心地は良かったんです。(当時の方々、皆様にお伝えしたい。)だから今まで続いてるんです。
居心地が良かったので、練習は皆勤賞かつ19時前には練習場所に到着しているような優等生。ストレッチも黙々とこなし、練習も黙々とし、休憩も黙々と取っていました。そして黙々と帰ってました。(黙々黙々、、、ゲシュタルト崩壊?)
その成果が動画に残っているみたいです。運動神経だけで踊っていたので、当時の振りを振り返るのはとても恥ずかしい。ですが、よろしければ観てください。(画角と画質が時代を感じさせますね。)
また当時の夢源風人は総踊りを積極的に踊っておりまして、「しげじぃ」(notなかじぃ)という方の「ぶんだら節」が好きでした(今はもう振りはおろか、曲すらも出てこない)
最初は、コミュニケーションおばけのあきべーくんが「苦手」だった。
今の夢源風人の中で先輩は4名います。みっつん(今と変わってない。職業チャラ男ではなかった。)、ぶんちゃん(今と変わってない。お酒は弱くなったと関係者談)、なかじぃ(今と変わってない。本当に変わってない。)、はな(当時身長123cm、本人談)。この4名には頭上がりません。
※つもりさんは、僕が入る前に抜けてるので、、、
そして、一番近い後輩は、あきべーとかなあみです。
ふふふ、私の方が加入したのは先輩なの。知らなかったでしょ?(その頃、既にチーム外では有名人さんでしたが、話さなかったので、そんなことは分かりませんでしたw)
あきべーくん。
彼ね、すごい話しかけてくるの。後、距離感の詰め方が”剣道”。なんかバッ!!って詰めてくる。わかるでしょ?
「何?この人類。。。めっちゃ顔近いやん」って印象しかなかった。「しかも、めっちゃ、やんやん言うてるやん。。。」って感じ。
彼と話すようになったのは、2006年のよさこい祭りが終わってから。
仲良くなれると思ったら、距離の詰め方は、私が”剣道”。相手は困惑。(なんか、いろんな人、ごめんね。)
今では、仲良し。出会った頃は人の家でお互いパンツ一丁で、一つの布団で寝ることになるとは思わなかったよね。
正真正銘の柴田彰洋くんです。
今はこんなにも仲良し☆
数年後の「あきべー」と「ハル君」(もちろん無許可)
すべてを変えた2006年よさこい祭りの前夜祭。十人十彩の衝撃
さぁ、ちょっとここで、よさこいの話しでもしましょうか。
あの頃の私にとっての「よさこい」は夢源風人が全てでした。三國無双から着想を得た振りもキムタクをイメージした衣装も、航海に向かう楽曲も手作りの地方車も、代表1人副代表2人の三人で天を目指す「夢奏人(かなで)」というテーマも「これが俺らのよさこいやぁ!!」って気持ちでいました。あ、もちろん、自分たちが一番だって、心の中ではいつも思ってるよ!New video by ぴとぅめもりーphotos.app.goo.gl
動画があったっ!地方車も昔の規定だから、お顔がある!
そんなこんなで初めてのよさこい祭り。行きのバスの中で、初対面の方多数の中で自己紹介をするという地獄を味わいながらもたどり着いた高知。その後、14年も続けていくことになるとも知らずに。
行きのバス内、とてもワクワクしてそうな顔(・_・)
以前はホテルに着く前に、前入り班が組み立ててくれた地方車を見に行って、地方車から大音量で流れる曲で踊って、気持ちを高めるというようなことをしてたんです。
そしてホテルに着いて、どうしようかなぁと思っていると同室の子(練習で何度か話したことのある「たけなみくん」)が「たいが、前夜祭行くで!」と声をかけてくれたので、付いて行くことにしました。(私、従順)
そして訳も分からず、ロスインから中央公園まで徒歩で向かいました。今と昔で何が変わったかなと思い返すと、2006年は高知駅会場がなく、高知駅も新駅舎になるまでだったかなぁ。。。
なんやかんや10分~15分くらい歩いてたどり着いた中央公園。既にすごい人数の観客がいて、それはそれで圧倒された。(聞いてないやん、よさこい祭りがそんなに大きいお祭りだなんて。だって、大阪ではそんなに観客集まらないし。)
審査員席の下で三脚を構えていたオジさんの横を陣取り、ドキドキしていると♪ダンダンダダンッ!ダンダンダダンッ!!と、始まったチームの演舞。
十人十彩2006は、その当時持っていた私の「よさこい」の概念をいとも簡単に崩しました。
音の迫力、洗練された衣装、振りの完成度、隊列美、そのすべてがかっこよくて、凄かった。どれくらい凄かったかというと、凄かった以外の語彙が消し飛ぶくらい凄かった。
上の動画は何回も観たし、携帯の着メロを十人十彩2006にしてたくらい大好き。
私は未だ、この演舞を越えるモノに出会えていない。もちろん演舞の質とかクオリティ、創造性とか考えると、今のよさこいの方が進化していると思う。進化していなければならないとも思う。ただ、その時の知識、気持ちや経験との相互作用から考えると、十人十彩の2006を越える作品はない。
この年の十人十彩は前夜祭グランプリ、よさこい大賞の2冠に輝きました。やっぱり、凄いっっっ!
そして、この時のたいがくんに教えてあげたい。
「あなたは何年後かに十人十彩2006の振付師、田村千賀に出会えるよ。」と。
出会ってから何年かすると、毎朝LINEで朝の田村千賀動画が送られてくることになるよ、、、と。(snowで、超絶カワイイ先生が毎朝拝めるよ☆)
前夜祭の衝撃をそのままに、始まった夢源風人2006でのよさこい祭り。
こんなに暑いなんて聞いてない!
こんなに踊るなんて聞いてない!!
こんなに楽しいなんて聞いてない!!!
人見知りひきこもり少年の感情は揺さぶられまくってた。
当時体験したこと、思ったこと。(一部抜粋)
お客さん、めっちゃ団扇で仰いでくれるやん。
待って、唐揚げとビールを差し出してくれるけど、踊ってる途中やで??
隣の人と目を合わせて踊るの楽しいっ!
きゅうりで乾杯って何?そんで味噌つけるのは意味わからん。
個人賞って何?めっちゃ嬉しいですけどーーーー!!!
何でバスが通るん?
終わりたくない、終わりたくない、終わりたくない、、、
ヒトはカルチャーショックに出会い続けると、壊れます。(経験談)
感情の波にさらわれ、高知の温もりに酔わされ、土佐の夏に踊らされ、、、気づけば、夜の追手筋の待機。向こう側で待機している別チームと一緒に気持ちを盛り上げ、スタッフの方のgoサインとともに、光に照らされた会場へ走り出す。高ぶる感情とは裏腹に、「終わりたくない、終わりたくない、終わりたくない、、、」という切なさがこみ上げる。まだ明日があると分かっているのに止まらない。
多分、それまでの私とは違う私がそこには居た。あふれ出る感情に心は爆発してた。隊列が横だった「ちゃむさん」に泣きながら、笑いながら、感情をぶつけるように踊ってた。
その光景はニワトリの私でもすごく鮮明に覚えてる。きっと、あの時、私の「よさこい人生」は動き出したんだと思う。
「よさこい」がそんなに好きではなかった私を受け入れてくれたチーム。
いつまでたってもほとんど話さないのに、声をかけてくれたメンバー。
一人にならないように気にかけてくれた、スタッフ。
2006年の高知で感じたのは、「目には見えない思いのつながり」でした。
私の大好きな言葉です。
あとがき
まだ続くんかぃ!って思ったあなた。
同じことを私も思っています、奇遇ですね。取り留めもまとまりもないことをよくこんなにつらつらつらつらと書けるものですね(・_・)
これ、最初はですね。2012年くらいまでを書こうと思ってたんですよね。でも、タイトルとか考えてるうちに、2012年が減り、2011年が減り、、2008年も2007年もDelete。2006年一年分しか書ききれませんでした。
2006年以降を書くかは、ここまで読んでくださった皆様の反応次第です☆
最後に、、、
今年のよさこい祭りはないけれど、来年の高知の空はきっと青空です。
必ず、心が爆発するような空間と時間があなたを待っています。そう、2006年の私のように。
2006年の私(全く何もどこも変わってないですねぇ)