こんにちは!
19期事務局のかほです。
事務局の中で特に文章が苦手なので緊張しながら、このブログを書いています。
拙い文章ですが読んでいただけると嬉しいです。
今回は夢源風人に入るまでのお話をしたいと思います。
私は高知で生まれ、生後6ヶ月頃から大阪で育ちました。祖父母が高知県にいるため、毎年の長期休みは高知に帰りすごしていました。1年の内1ヶ月以上長期休暇などで高知県で過ごすためか、私は高知の人という感覚で土佐弁を話していました。
また、毎年よさこい祭りを帯屋町筋まで見に行き、熱気溢れる踊り子やお客さんを見て、毎年夏は高知県に帰り、よさこいを観に行くことが習慣になっていました。その時はただ、よさこいを見に行くお客さんでした。
↓土佐けんぴを食べてる私(4歳)
私がよさこいを観る人から、踊るきっかけを作ったのは、母でした。
私が小学2年生の頃、母は地元の人のチームに所属し、よさこい祭りに参加しました。
小さい頃から観ていたよさこい祭りでしたが、いつもと違う母にドキドキ。
中央公園で観た母の姿は私に衝撃を与えました。いつもと違う母はとても綺麗で、とても楽しそうに踊っていた姿を今でも鮮明に覚えています。
母の演舞を待っている際、祖母がよさこい祭1年目の年から何回か踊ったことがあるということを知りました。「祖母や母がやっているなら、きっと私も大きくなったらどこかで踊るんだ」と踊りたい気持ちが生まれました。「踊りたい」と母に伝えると、「お金も時間もかかるから、自分でアルバイトをできるようになってしなさい」と言われました。きっと勢いで踊りたいと言ったことを母に見抜かれていたのでしょう。
↓よさこい祭りの帰りに
高校生の私は一足早く大学受験が終わり、11月から人生初めてのバイトを始めました。
そして、2015年12月8日。給料の出る1週間前、人生初の給料を何に使うかを考えていました。
「あ、私よさこいがしたい。」
自分の部屋にいた私はリビングにいる母に「私よさこいする!!」と、伝えチームを探しはじめました。
高知県のチーム、大阪のチームたくさんのチームが出てきて、とっても悩んだのですが、
夢源風人の万華鏡の追手筋の演舞をYouTubeで見た際に強く惹かれました。「ここで踊りたい」どんな人がいるんだろうと何個か動画を観てインパクトに残っていたのが追手筋とバサカニで踊っていた大声ダイヤモンドです。
よさこい以外にもこんな風にチームのメンバーと仲良く活動してるなんて素敵だなと思った私はすぐにメンバー登録を送りました。
以下送信内容↓
「一度決めたら最後までやりきります笑 ちっちゃい頃からよさこいに憧れていたので 練習から真面目にやっていきたいと思います‼ 参加できるところは参加していきます 週に一回は参加したいなぁと思ってます 結構活発な方だと思います😁 あとめっちゃしゃべります笑 よろしくお願いします😌✨✨」
今思うと全然かしこまってない、高校生らしい文章なのかなと思ったり…笑
母によさこいをする!と伝えてからチームに入るまで約1時間の出来事です。
母に1時間で決めたことを怒られましたが、今では笑い話です。
万華鏡の追手筋や大声ダイヤモンドを見たのもきっとなにかの縁で繋がってたんだなと思います。
次回はインスト・事務局編です。
次こそは感動的なブログを書きたい😭
万華鏡動画↓
https://youtu.be/3vjy-5mpJeQ
大声ダイヤモンド
https://youtu.be/mr1lWpjm0lQ
こんにちは。
19期事務局のかなこです。
ピトゥタイムズでいつもお世話になっております。
「ぴとぅとの縁、つながり」を綴るこのブログ企画。
自分の過去をおおっぴらにするなんて、大変こっぱずかしいのですが。
いっちょ、やってみたいと思います。
自分の経験や繋がりが、また誰かの繋がりになれたら嬉しい。
先日ぴとぅのメンバーさんからサプライズで、モザイクアートを頂きました。そこに隠された私へのメッセージは『歩く太陽』。なんともったいないことば。
今でこそありがたいことに「笑顔が素敵」「顔がうるさい」とよく言って頂けますが、20歳頃までそれはもう、人見知り全開で笑うことがほぼ無く、どの写真を見ても真顔で暗い影が写る子でした。(あまりにも暗くて怖いからここには載せない☆)
そんな大人しくて暗い子が、初めて強く「これがしたい!」と感じたのが、中学生の時に沖縄で見たエイサー。
元々バレエや日本舞踊を習って舞台で(真顔で)踊る機会も多くありましたが、目の前で繰り広げられる迫力ある演舞に、「私がしたいのはこれだ」と目が離せませんでした。大きな太鼓の音に、笑顔で身体を大きく動かして楽しそうに踊る、お兄さんたち。かっこよかった。
今でこそエイサーを踊るチームは日本や世界各地にありますが、当時は沖縄以外にはあまりなく「いつかあんな風に和物で激しく踊ってみたい」と感じたのが始まりです。
そんな想いを胸に秘め、暗い自分もどうにか変えていきたいと、いろんな活動をし始めた学生時代。
2008年、京都の新風館。イベントのボランティアをしている時に、会場のステージで踊りが始まりました。
着物風の衣装を着て、アップテンポな曲調に加え激しい踊り、そして聞き覚えのある声……ん、声???
そこで踊っていたのは『京炎そでふれ!チーム大曇天返し』、そのMCを担っていたのが当時知り合ったばかりの友人でした。
大曇天返しPV
(京炎そでふれ!ってなんじゃいな?って方はまた聞いてください。)
そこから、私の人生は大きく変わり始めました。仕事で抜けた時期もあったけど、大曇天返し(以下どんでん)にいた期間トータル6年。
話したらこれまたブログ1個できるくらい長くなるので省きますが、踊っている姿を見たうちの両親が「あんたってあんなに笑顔で踊れるんやな!」と喜んでくれたことが、とても誇らしく嬉しかった。
暗い自分を、少しでも変えることができたと実感したことばでした。
どんでんで、踊りの楽しさ・踊りがもたらすエネルギー・そしてそれは見ている人の心を晴らし、その人の向こうにいる大切な人たちまでをも元気にする、ということを体感しました。
もっと踊りを学びたい
もっと多くの人と繋がりたい
もっと多くの人の心を晴らしたい
どんでんを卒業したメンバーが次々によさこいチームに入って高知に向かっている姿を見たり、映画『君が踊る、夏』の影響や、友人が『おどりんちゅ』というチームを立ち上げたこともあり、よさこいというものは少しずつ身近になってきました。
そして2度目の転機。
2015年6月。仕事で国際交流プログラムのスタッフをしていると、なにやら今晩よさこいチームが踊りに来るとのこと。
異文化交流の為にと丁度どんでんの衣装を持参していた私はそれを着て、どれどれと参加者のみんなと一緒に客席へ。
そこで演舞を披露していたのが、夢源風人でした。
これまで踊ってきたどんでんとはまた違った魅せ方。
「いつか、こんな風によさこいを学びたいなぁ」と素直に感じたのをはっきりと覚えています。
その後は当時のメンバーさんと一緒にうらじゃを踊ったり、はなさんに「他チームの衣装着てうらじゃ踊れるこの人…誰」って目で見られたり、楽しかったです。ええ。
でも当時は入会には至らず、チーム名も「漢字4文字の読み方分からんチーム」という認識で、1年が経過した翌年2016年のこいや祭り。
ぴとぅがパレード賞を受賞し、メインステージで受賞演舞を踊ったあの年です。
元どんでんのメンバーが踊っていたこともあり、たまたま見ていた演舞。(昨年見たチームだとはこの時まだ気付いておらず)
演舞が始まった途端、中学生の時にエイサーで感じた衝撃と同じものが身体を走りました。目が離せない。
大勢のお客さんの一番最後列で見ていた為、ステージ上で踊るメンバーさんは本当に米粒のよう。けれど、満面の笑顔で踊る白い歯がはっきり見えて。
こんなに楽しそうに踊るチームどこ!?と改めてパンフレットを見て、そこで初めて昨年出逢っていた『夢源風人』というチームだと気付きました。
よさこいチームを探していた私は隣にいた友人に「ここ楽しそうやなぁ…」と呟くと「うん。かなこはぴとぅさんが合うと思う。」とはっきりと言ってくれ、そのことばに背中を押され、見学に行ったのでした。
(↑初めての見学後に事務局さんに送ったメール)
そこからは、あれよあれよと世界が広がり、文字通りぴとぅやよさこいを通して、日本中や世界の人と繋がることができました。
やいろの皆さん(上)とスウェーデンで活動している白夜よさこいチームの皆さん(下)
高知のよさこい祭りに初めて参加した時の充実感としんどさは、きっと忘れないだろうなぁ。
ことばを交わさずとも、沿道のお客さんと会話ができた瞬間が確かにあって。そして『踊りは人の心を晴れにできる』と確信を持って言える体験が、高知には溢れていました。
ぴとぅと出逢い、高知に行き、学んだことの多さといったら。踊ることももちろん楽しいけれど、その踊り子を支えるスタッフも、とっても楽しいよ。またやりたい。
私の愛する海遊館に展示されていることばです。
ぴとぅは、求めれば求めるだけ応えてくれる人と環境があるなと個人的に感じています。
また、チームに居る目的はそれぞれであっていいと思っています。踊ることが好き、メンバーが好き、衣装が好き、雰囲気が好き。
ただ、どんな形であれども、今ぴとぅと関わってくれているのならば、私は「このチームに入ってよかったな!楽しいな!」って思える場所にしたい。
だってせっかくご縁があって出逢えたのだものね。
読んでくださっている皆さんもきっとそれぞれの選択や繋がりがあり、今があるのだと思います。
人見知りで笑えなかった私が、踊りを通して、自信を持って笑えるようになったみたいに。
ぴとぅと関わるこの瞬間が、皆さんの素敵な未来に繋がりますように☆
はじめましての方もそうでない方もこんにちは。
19期事務局のはじめです。
「ぴとぅとの縁、つながり」をつづるこのブログ企画。
これまでかなり前からぴとぅと関わってきたメンバーの文章が続きましたが、僕はぴとぅ歴=よさこい歴=3年弱とちょっと違うタイプです。
なので、古い歴史を振り返ることはできないのですが、踊りとは縁もゆかりもないアラサーの男がよさこいと出会い、ぴとぅと出会って事務局に入るまでの話をまとめてみました(ぴとぅを知ったキッカケはこれまで話すと長くなるのでネットで検索したことにしてましたが、今回真相を初めてお話しします笑)。
始めたばかりで不安な人や、これから入ろうかなと迷ってる人や運営に興味ある人などなどのみなさんに何かしら参考になればうれしいです。
なお、忙しい人は見出しだけ拾って読んでもらえればストーリーが何となく伝わるようになっております!
よさこいを知ったのは2010年に映画『君が踊る夏』を見たことがキッカケ。
その後付き合うことになる女の子との初デートに行ったのですが、なぜこの映画をチョイスしたのかは覚えていません。何かの導きだったのかしら。
映画の終盤。
色々あったけど、溝端クンも含めてチーム全員でよさこいを踊るシーンがとても印象に残っていて、いつか本物を見に行きたいなという気持ちがココロの片隅にありました。
時はたち(映画を見に行った彼女とも別れ)、2017年8月についにその時がやってきました。僕は昔から1人旅が好きで、毎年どこか行ったことのない土地にテーマを決めて乗り込むのですが、2017年はそのテーマを
「四国2大祭りめぐり」
に設定したわけです。
高知よさこい祭り→徳島阿波踊りをはしごするというありがちなプラン。
一回生で見られればOKという軽いノリだったので、どんな会場あるとかは特に調べずにぶっつけで高知へ。
1日中色んなチームをはりまや橋商店街で「すごいな~」とか思いながら見ていたわけなのですが、当時「どこいこサービス(どの会場でどのチームが踊っているかわかるサイト)」の存在を知らなかったので、よさこい大賞とか取っている有名チームはどこで見れるのかわからない。
そんな時、はりまや橋筋商店街の近くを「とらっくよさこい」と書いたトラック(地方車という名前は知らなかった)が通ったのです。
歴代受賞チームの表は事前にネットで軽ーく眺めていて、「とらっく」という変わった名前のチームが一時期上位入賞しまくっていたことや、最近は「ほにや」というところが圧倒的に強いということくらいは記憶にありました。
「せっかくだから有名チームも見たい!」
と思って、信号待ちしていた「とらっくの車」の方に走って近づき、運転手の人に
「次はどこの会場行くんですか?」
と聞いたところ、
「中央公園やき(語尾はわすれました笑)」
とのこと。親切な高知の人々に聞きながら夜の中央公園へ。
そこで見た夜の巨大ステージと演舞が僕の人生を大きく変えていくことになります。
とらっくの車に話しかけた道路
本祭2日目の夜の中央公園は受賞チームの演舞の連続でした。
とらっくよさこいを無事見た後に登場したのが名門・旭食品。
2017年金賞受賞演舞・鯨波(とき)の声(youtubeに飛びます)。
こういう感じになりました(イメージ)
ちゃんと踊りを見たことなんてない自分でもすごさがわかる圧巻の演舞で、言葉が出なかった。ここまで1日見ていたよさこいとは全く別の物に思えるほどの衝撃を感じました。
代表の記事や虎日記にも似たような場面がありますが、誰しも一度は通る道なんでしょうか。
大阪に帰った後、旭食品は女性のみで構成されるチームで、メンズは入れないと知ってとても残念に思ったものです。
最後に登場したのが、言わずと知れた十人十彩(知らなかったけど)。
演舞も感動してその後、旭食品と同じく100回以上動画見ることになるわけなのですが、印象に残ったのはお祭り終了後のミーティング。
総踊りまで見終わって中央公園を去ろうとしていたその時に、さっきまでステージで踊っていた皆さんが集まって終わりの会をしてたんですよね。
代表の人や振付師らしき人やリーダーっぽい人が順番に胸アツなお話して、大賞受賞をみんなで喜んでるわけです。青春ですよね。
一生懸命練習してきた日々(してないけど)が思い出されて、見ている自分も感動。
十人十彩のミーティングに青春を感じました
その後中央公園から人が引き始めたので、夜の高知を散策。
信号待ちをしていると衣装を着た女の踊り子さんに高知駅への道を聞かれます。
(高知人がなぜ道を!?)
と思ったけど、踊り子さんとコミュニケーションするチャンス。
道は把握していたので、駅まで送っていくことにしました(積極的)。
そしてこの出会いが本題のぴとぅに繋がるキッカケとなったのでした。
話しながら聞くところによると、
・大阪在住の女子大生
・でも東京のチームに参加
・夜行バスで大阪に帰る
そして、過去にも高知で踊ったことあるよさこい事情通だと判明。これ幸いと色々質問。
どうやら、大阪にも高知まで踊りに来ているチームが複数ある模様。
事情通の彼女は各チームの特徴をわかりやすく説明してくれます。
ちなみに「ぴとぅ」の説明は印象的でよく覚えていて、
「ワイワイ系と見せかけたガチのチーム」
「ぴとぅで一番うまい子はアタシの後輩」
とのことでした笑
2つ目はマウンティングされてるのかな、、、
ともかく、十人十彩を見た直後で、PL学園的な死ぬほど練習してきました!
みたいなノリにあこがれていたのでガチなのはむしろ好ましい。
でも、こちとらダンスどころか体育で(保健のテストは高得点なのに)10段階中6以上は取ったことのない低スペック運動神経の持ち主。
ちゃんと練習についていけるのかが気になりまくり、事情通の踊り子さんに質問。
はじめ:「初心者でも入れるんかな?」
事情通:「オーディションとかないし、初心者でも鳴子からしっかり教えてくれると思いますよ」
この時点でよさこいを始める決断はしていなかったものの、貴重な情報が、そしてぴとぅとの縁がこの事情通の踊り子さんからもたらされたのでした。
迷子の踊り子がぴとぅへの縁を運んできてくれました
阿波踊りを見て、大阪へ。
帰ってきても高知の光景が頭から離れず、毎日毎日youtubeでよさこい祭りを振り返っていました。
youtubeの動画ってほとんどカメラが固定された動画なんですよね。
色んな画角の動画も見たいじゃないですか。
というわけで、高知県商工会議所連合会さんが販売している公式DVDまで購入することに。※ちなみにここから購入できます
早速このDVDを見るわけですが、Youtubeと違って各演舞の前にそのチームの振付師と作曲家と都道府県名とかが表示されるんですよね。
で、何回も見ているとよく出てくる名前を覚えちゃうわけです。
ここのチームもさっきチームもこの人が振付なんや!という感じで。
特によく見たのが
「田村千賀」
という人でした。
勝手なイメージでめちゃめちゃ怖い鬼のような顔をしたスパルタコーチみたいな人を想像してました(千賀先生すみません笑)。
ここから3年もたたないうちに、「DVDの中の有名人」と飲み会でご一緒させてもらうことになるなんて人生わからないものです。
公式DVD。
よさこい祭りから1か月後、やはり見ているだけではなく踊る側に回りたい気持ちが抑えきれずに2017年9月20日、事情通の踊り子さんから聞いていた「夢源風人」の体験会に参加。
大阪城公園の練習場所に行くと懐かしの鳴子の音が聞こえてきて胸が高鳴りましたよね。
今同じ事務局メンバーをさせてもらっているつもりさん・たいがさんから規約やら高知のことやら色々と教えてもらう中で、どうやら事情通の踊り子さんが言っていたイメージは大体合っていることがわかってきました。
そして、チームの人の会話の端々に「チカセンセイ」という名前が聞こえてきます。
はじめ:「チカセンセイって田村千賀ですか??」
つもり:「そうそう!(心の声:なんで知ってるんや)」
なんと、想像以上にガチのチームらしい。
肝心の踊りは「ハレ晴れ」のよさこい節の部分を振り落としてもらったのですが、短いフレーズなのに全然覚えられない&体がついていかない><
それでも当時のインストのY君が優しく教えてくれたのと、たいがさんの言っていた「うちは過保護やから」というフレーズ、そして「あの」田村千賀の振付!というわけでかなり前向きな気持ちで体験会を終えました。
「この環境なら自分でも続けられるかも」
と思う一方、やっぱり不安な気持ちもあって4日間悩みました。
悩みすぎてその4日間は1日に8時間しか眠れなかったほどです。
悩んだ結果、体験会で「前向きに考えてるので、お世話になることがあればよろしくお願いします」とあいさつした時に、現代表・かなーみさんからの
「お世話になろう!」
と言ってもらった記憶の中の声に後押ししてもらってハレてぴとぅメンバーとなりました。
ぴとぅライフはここから始まりました
ご縁があって登録してからは体験会で聞いていた通り、過保護体制にお世話になりまくりましたよね。
例えば、
・ハレ晴れのイントロ(約20秒)の振り落としに練習会4回(3h/回)かかる
・11月の四日市よさこい祭りに間に合うようにインストMさんの自宅で特訓してもらう
・18年ココロ咲く夏でも、補講をたくさん開催してもらう
・「先生練」で千賀先生の生指導を受ける(実物はとてもやさしいお顔の先生でした^^)
・能登、高知と遠征のバスやホテルも全部チームで手配してもらう
・特に高知では給水や救護体制(初めての高知は足の裏に穴があき、2回目の高知は熱中症で倒れこみました)の整いっぷりには感動しましたよね
・勤務先のイベントに依頼演舞で来てもらう
などなど、あげればキリがありません。
貴重な時間を割いてくれた当時の事務局さん・インストさんには感謝しかないですね。
そして時はたち、↓の写真のようなめざましい成長(!)をとげる中である信念を持つようになりました。それは、
何かを始めるのに遅すぎるということはない
というもの。
【BEFORE】デビューの舞。必死過ぎて笑顔の余裕がない。
【AFTER】保護のおかげで(時々)笑顔で踊れるようになりました
見学で見せてもらった演舞は、とても自分ができるようになれるものには思えなかったけれど、レベルはともかく2か月後には隊列に入って踊らせてもえたし、その8か月後には高知で3日間踊りきることもできるようになりました。
強い思いを持って続けていれば応援してくれる人がいると教えてくれたのがぴとぅでした。
ぴとぅには小・中学生のメンバーもいたりして、
「この子たちみたいにもっと早くよさこいに出会ってたら振り覚えるのもこんなに苦労しないんかなぁ」
なんて思ってたこともありますが、千賀先生の
「1番いいタイミングで(よさこいに)出会ってるんです」
という名言を聞いてからはそう思うようにしています^^
「人と比べるんじゃない、比べるのは昨日の自分、1日前の自分、1分前の自分(By Chika Tamura)」
というわけで、個人的な話ですがコロナで踊れない今の時期に今まで全然やったことのない勉強を始めてみることにしました。
きっと苦労するんですけどこんな難しい踊りを0から踊れるようになったんだからきっと大丈夫だと思ってます。
2017年に登録した時に、事務局に送ったメールを見返すとこんなことが書いてありました。
さて、いろいろ考えた結果、登録させていただこうと思います。
持ち前の運動神経のなさで大きなチームの足を引っ張るんじゃないかと
不安なのですが、最初は過保護体制に甘えさせていただいて、1日も早く
保護する側に回ることができればと思います。
この気持ちはずっと持ち続けてまして、ちょくちょくお祭り担当や忘年会スタッフとかは手伝わせてもらっていましたし、昨年代表のかなーみさんに事務局に誘ってもらった時も即答こそできなかったものの、ほとんど引き受けることは決めてました。
「目には見えない思いのつながり」ってよく言うじゃないですか?
「思い」って色んな解釈がありますが、僕の中では「やさしさ」だと思っています。上に書いた「過保護」は全部やさしさから来てるものなんじゃないかと。
これまで公開されている先輩たちの記事を読んでいても、さらにその先人たちからのやさしさを受け継いでこられたんだろうなーと感じます。
渡る世間は鬼ばかりな世の中でこういう環境ってかなりレアだと思うんですよね。見逃しているダークサイドがどこかにあるのかもしれませんが笑
代表が「大切な場所は自分で守らないといけないと思う」と言ってましたが、19年間受け継がれてきたやさしさをこの先もつなぐお手伝いをちょっとでもできればなと思ってます。
とは言え、ぴとぅ歴もよさこい歴も浅い自分一人でできることなんて知れてますので、ぴとぅの歴史を作ってこられた事務局の先輩やチームのみんなの力を貸してもらって、今はちょっとアレですけどこれからは一緒に楽しい時間を作れたらいいなと思っています。
長文最後まで読んでくれてありがとうございましたm(__)m
MCの団扇持ってる写真
よさこいとの出逢いを綴るって、超ハードな作業。。。
私のコトバに興味がある人なんて少ないとは思いますが、ココロを込めて綴ります。
長くなりそうなんで、どうぞゆっくり時間がある時にお付き合いください。
第26回中之島まつりポスター
私がよさこいに出逢ったキッカケを語るにはやっぱりここからだな、と思います。
現在39歳、2人の子持ちの関西のおばちゃん全開の私ですが、そんな私にも女子高生という可愛らしい時はありました。
芸能文化科という上方芸能を学ぶという特殊な高校に通い、体重75キロという巨漢の割に楽しい学生ライフでした。
授業の一貫である落語家さんたちのお祭り(毎年9月開催の彦八まつり)にお手伝いに行き、そこで中之島まつりの実行委員会さんと出逢います。
当時は演劇とダンスに没頭してた私。
『中之島まつりのステージやらしたるから一緒に祭り作ろう』
とのお誘いにほいほいくっついていきましたwww
そうして初めてお祭りの運営に携わったのが、1996年、15歳秋のこと。
中之島まつりでは、たくさんの経験をさせてもらいました。
子供ステージのステージ長に始まり、メインステージのステージ長、飲食ブースの店長、そしてお祭り全体の事務局長。
当時は中之島まつりが私のすべてでした。
そんな生活の中、新たな出逢いが訪れました。
第1回こいや祭りガイドブック
中之島まつりの事務所がほぼ自宅化してた私。
ある日、めちゃくちゃ美人の大学生がやってきました。
はい。第1回こいや祭り実行委員長の野澤さんです。
なにやら、大学生が実行委員となって、大阪で踊りのお祭りをしたいらしい。。。
『応援しよー!』って訳で、私の自宅化していた事務所は、急に美男美女大学生が毎日真剣に話し合う事務所となりました。
当時まだ18歳?だった私は、どう考えても自分より大人びてる同世代の人たちに圧倒されっぱなしでした。
そして、迎えた第1回こいや祭り。
私はブースからステージを見てました。
もともとダンスをやってたこともあり、ウズウズしっぱなし!笑
とにもかくにも無事に第1回こいや祭りが終わり、さぁ、次は自分たちの祭りに没頭!と日常に戻ったのです。
しかし、私と同じようにウズウズしてた人が他にもいました。
私と同級生のお父さん。。。
《もりしげさん》です。
こいや祭り実行委員としてよさこい普及活動
ある日、急に《もりしげさん》に『つもり、踊るん好きやろ?城公園行こうや』と誘われました。
よくわからないままついていくと、そこにいたのは《ひめ》と呼ばれる綺麗だけどサバサバしてて少し怖いwww方。
挨拶もそこそこに、急に振り落としが始まりました。
【こいやの舞】ともう1曲(諸事情により曲名は出せません)でした。
なんと数時間でまるまる2曲の振り落としを受けました。
で、、、、
はい。ハマりましたwww
もっともっと踊りたい!踊り子のみんなと仲良くなりたい!
そんな思いが溢れました。
が!
私は祭りを作る側の人間だ!という変なプライドが邪魔をし、メンバーにならず、中之島まつりやこいや祭りの実行委員をメインに活動していました。。。
カウントダウンイベントでこいや祭り実行委員と
ぴとぅとの出逢いの章なんですが、、、実はあまり覚えてないんです。。。
いつの間にか振り落としを受けていました。確か、何かのイベントにだけ、スポット参加することになったのがキッカケだと思います。
だから、最初に振り落としを受けたのは総踊りの【花祭り】でした。
そんなに練習にも参加できなかった私にもみんなすごく温かかった。
なんだか青春だった。
そんな空気感だけが鮮明に残っています。
財政難なチームの為に、フリマを開こう!とみんなで商品を持ち寄ってフリマに出品したり、こんなチームにしたい!とか、よさこいの魅力とか、私の知らない世界を聞かせてもらいました。
《ほりちゃん》《あかちゃん》と気軽に呼んでた気もするけど、当時は本当に気楽に参加してました。何も役には立てなかったけど、裏方として思い付くことは言ってた気もします。
活動に行ったり行かなかったり、、、当たり障りのない、居ても居なくても同じな活動をしてました。
そんな私がぴとぅにどっぷり浸かったのは2005。
同じ中之島まつり実行委員だった《まるさん》が代表をするとのことで、誘ってもらって、真剣に練習しました。
振りは、これまた中之島でご一緒の《みっつん》。
この年は頑張って練習に行きました。
初めて衣装も買いました。
だけど、高知のよさこい祭りには興味がなく←今考えるともったいない。『あんなに暑いところで踊るなんて信じられへん!』の殻から抜け出せず、衣装を着て踊ったのは寒い冬の季節のみwww
EXPOまつりんぐ
両肩が出てる衣装はかなり寒かった!
あ、この2005に《はなちゃん》がぴとぅにやってきました。
今とほとんど変わらない、超超可愛くて踊りも上手でストイックで、はなちゃんと初めて会った日は今でも鮮明に覚えています。
その後2006は廃人になり、2007にたった1回だけ復帰しました。
明石やったかな、、、?
振りもままならない状態で、産んだばかりのりょうやを連れて参加し、見事に気持ちが敗北。。。
そこからは子育てに追われる日々となりました。
雨の神戸よさこい
りょうやが幼稚園の時にとあるキッカケで、またよさこいとご縁することとなりました。
【よさこいチーム天舞音】です。
地域の小さいお祭りに参加してる小さいチームかと思っていたらビックリ!
いろんなお祭りに参加してて、私は久々に夢源風人の演舞を観ることになりました。
数年振りに見たぴとぅはすごいことになってました。
こいやプレでのかなみとここちゃん
コトバでは表現しにくいけど、笑顔溢れてる数がめっちゃ増えてて、洗練された演舞で、キラキラしてました。
久々過ぎて声もかけにくかったけど、ある年のこいや祭りで、ぴとぅのブースに行って、『久しぶり!』と勇気の一言。
すると、私の心配はどこへやら、普通に話してくれる仲間がそこにはいました。
りょうやが4年生になる年、私は決意。
私もぴとぅで踊りたい。仲間になりたい。
そこで、《かなみ》に『子供らいてるし、高知には行けないけど、私、復帰しても良いかなぁ?』と連絡しました。
みゆかを産んだ後もずっとずっとぴとぅに居るかなみだけが頼りでした。
お返事は『OK!』
(ノ´∀`*)
メンバーに新曲【あふさかんシンフォニー】御披露目となったクリスマス忘年会より、復帰となりました。
心機一転、私は本名で《かつまま》と登録したのですが、
そこには《かなみ》《はなちゃん》《みっつん》《ポッター》《あきべ(名前だけ知ってた)》《たいが(ぴとぅではないところで知ってた)》などなどが私を《つもり》と呼ぶので、あきらめて登録名は《つもり》を通すこととなりました。
あふさかんシンフォニー
あふさかんシンフォニーは家族で私だけが参加。まだまだ小さい子どもたちを連れて練習に行くことは叶わず、始めに開催された振り落とし合宿だけが頼り。子どもたちを退屈させないように工夫しながら皆さんにも協力してもらいながらのスタート。
ほとんど練習に行けずでしたが、かえる祭りや神戸よさこいなどに参加しました。
日頃の練習には1人で参加してましたが、イベントには子どもたちを連れてました。
そして、大阪大会。
大賞は逃しましたが、ぴとぅは金賞でした。
それを見たりょうやが『ぼく、来年ぴとぅ入ろうかな』と!
嬉しかった。本当に嬉しかった。
みんなの笑顔、温かさ、その全てが4年生のりょうやにも届いたんだ!と実感しました。
初めての高知のよさこい祭り
りょうやと私の親子ぴとぅ初演舞は
【ハレ、晴れ】
そして、家族みんなで、初めての高知のよさこい祭りに参加しました。
まさに、ハレ舞台でした!
その後は皆様ご存知のように、りょうやにとってよさこいとの出逢いは人生の大切な宝となっています。
りょうや、ハレ晴れ
りょうやと私がぴとぅに明け暮れる毎日。当時まだ年中さんだった妹のここちゃんにとってもぴとぅの時間が楽しくなるように色々と工夫をしていました。
ここちゃんは、先ほど出てきた地元のよさこいチーム【天舞音】に所属しています。
ここちゃんの口癖は『私は天舞音が忙しいからぴとぅは無理!』ですwww
よさこいチーム天舞音
そんなここちゃんが、2019年(ここちゃん1年生)の高知で帯筋のみんなの演舞を見ながら『20周年はここちゃんもぴとぅで踊るで!』とあらためて真剣に言ってきたのです。
まさかの、家族3人で!嬉しすぎです。
本当なら、来年が家族デビューでしたが、1年延期。
悔しくも、りょうやの高校受験と重なり、みんなと一緒のスタートは難しいですが、身体を壊しまくっている私にとっては最善の体調で参加できるように調整する時間が増えました。
りょうやも4月からスタートでもみんなと高知に行く!受験時期は仕方ない!と腹をくくっています(>_<)
家族でよさこいカウントダウン
ぴとぅは、あったかいです。
ぴとぅは、やさしいです。
ぴとぅは、げんきです。
ぴとぅは、じゆうです。
ぴとぅに出逢って人生は変わりました。
ぴとぅに出逢って人を想う事を知りました。
ぴとぅに出逢って自分に優しくすることを知りました。
昨年の高知で、ホテルのテレビを通してみんなを見た時、ココロから、
【みんなの笑顔が私の郷です】と思いました。
たくさんのありがとうと
たくさんのかんどうと
たくさんのえがおがある
そんなチームに一緒に居れることが
本当に幸せです。
みんなからのお手紙
徒然なるままに、自粛生活、パソコンに向かいて、心にうつりゆくぴとぅのことをそこはかとなく書きつくれば、何か伝えられるものがあるというものだ。
なので、事務局が書くと聞くnoteというものを、人見知りの私もしてみようと思って書くのである。夢源風人に出会ったある年の5月を書きはじめとする。そのぴとぅとの次第をほんの少し物に書きつける。
何か意味のあることを書こうと思えば思うほど、硬い文章になって、面白くなくなってしまう。興ざめ。なので、構成も文体も整えないまま垂れ流します。まもなく約15年前にタイムスリップいたしまーすっ☆
心の準備は出来ているかい?
さぁ!私と一緒に時空の旅に出たい方は、このままスクロール☆
現実世界に帰りたい方は、戻ってね、バイバーイ!
時空をつかさどる、よさこいの妖精とリアルおとど(知らんけど)
何から話せばよいかと思案しまして、まずは夢源風人に出会う前の背景をほんの少し。
私がチームに出会う少し前のに、母が「こいや祭り」というものにハマり、妹もハマり、、、我が家の会話が「よさこい」に浸食されていっておりました。
また、2005年のよさこい祭りに、当時小学5年生の妹「まつりちゃん」が夢源風人から参加することになっていましたので、チームの存在と「夢」「源」「風」「人」と書いて、「むげんかじぴとぅー」と読むのだなぁということは知っていました。ただ、そんなに興味はありませんでした。
その頃の私は、母のお願い(命令?)により、地域の子どもたちに南中ソーランやくるくる丼を教えておりました。地元の盆踊りで子どもたちが披露するために一生懸命頑張ってる子どもたちは可愛かったですね。
子どもたちのことは好きだったので、それほど苦ではなかったのですが、私は踊りたいわけでもなく、、、また母や妹に関わる若い人たちが基本的にテンションの高い人たちだったので、「よさこい」はあまり好きではありませんでした。
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何この前置き(・_・)
夢源風人との出会いは2005年の中之島祭り
今、みんなと練習している剣先公園がきれいに生まれ変わる前。
そこに作られたステージで、男女とも右肩を出してた紺色の衣装(2004、想いの花火)を着た大人の人たちの演舞。
それまで、地域の子どもたちが盆踊りとかで踊りを披露するために、教えていた踊りとは全く違う、鳴子を持って笑顔で楽しそうに踊る、「大人」に驚き桃の木20世紀でした。驚きももの木20世紀 – Wikipediaja.wikipedia.org
こいや練の定位置は、みんなと触れ合わない「隅っこぐらし」
夢源風人というチームに出会った一年後、5月の上旬にチームに加入しました。(一年間、何しててん!って突っ込みは無しで。記憶にないから。多分、色々あったんだと思う。きっと。)
私がチームに加入したころは、まだ月謝制だったと思うけど、記憶力が基本的にニワトリなので、、、だれか補足をお願いします。
加入当時のぴとぅメンバー30名ほど。練習会には20名来たら多い方っ!というようなチームでした。(今じゃ考えられないでしょ?)練習場所は、水曜日の大阪城公園、金曜日の春日出中学校と今と一緒でした。
その頃の記憶を頭の中の引き出しを探してみると、必ず先に見つけてしまうものがあります。それが「こいや練」こいや祭り公式サイト大阪の夏を彩るこいや祭りへ!www.koiya.net
その頃は活発に行われていた「こいや練」(毎週火曜日19時~21時、大阪城公園の噴水前に集合な!!って感じ)
私よりも前に、よさこいに浸かっていた母と妹に連れられて、私も毎週火曜に大阪城公園に赴いていました(嫌だった)
チームの中でも言葉を発しないのに、若さウキウキの人たちと話せるわけないでしょう?だから、私はみんなの輪から離れたところで時が過ぎるのを待ってました。(すげぇ変なやつ)
そんなやつでも同世代の人は絡んでくれたんです。人との関わりが嫌いだったけど、その時間は楽しかった。その人たちには本当に感謝。2号くん、やまと、辰村、たむたむ。
毎年高知でスタッフをしてくれている2号くんとは、その頃からの付き合いなんです。(私、甘えきってる。何でも受け入れてくれるから)
ちなみに彼と「湯豆腐を食べにいこうね☆」という約束は14年経った今でも果たされていません(・_・)
2号(若かりし頃)、たいが(痩せてた頃)、さとし(今とほぼ一緒)
同時加入はハルくん。
さて、「こいや練」に話を持っていかれましたが、ちょっと戻ります。上にも書きましたが、私は2006年5月の1週目の金曜日に夢源風人に加入いたしました。その当時を知る人は練習以外は話をせずに小説ばかりを読んでる文学少年と思っていたと思います(違う)
同日加入がもう一人いました。みんなご存じ、ハルくん。(めっちゃイケメン)
元々は勝山組(あきべーくんの同期)で、学校の関係で大阪に戻ってきたので、大阪のよさこいチームを探してたみたいです。1.2ヶ月、チームの体験をしていて、やっと加入したという優柔不断さも彼の魅力☆今は「よさこい塾・ありがた屋」のメンバーです。
彼とは2007年に「中央スタッフ※」として一緒に頑張ることになるのです。
※中央スタッフ:練習会やイベント等を企画運営するスタッフで、花・ハル・たいがの3人で頑張っていました。たいが初めてスタッフをするの巻。
かなあみ代表(2007年当時)が新たに設置したスタッフでした。1年間、楽しいも悔しいも経験して過ごせたことが今の私を作ってくれているんだろうなと常々思っています。
余談の中の余談ですが、人見知りなのに、自己肯定感は人一倍高かったので、何もわからず「何かしたいです」と代表に直訴したのもエモエモのエモですね。(エモい)
また、話が変わりましたね。伝説の中央スタッフについては、2007年の章で触れたいと思います。
顔がいい。(無許可)
練習会には、まじめに通っていたけど、言葉を発することは、ほぼない。
晴れて、夢源風人メンバーになったわけですけども、当然、上記のように人と話すことがありませんでしたので、当時の記憶はあまりない。(・_・)だって、ニワトリだもの。とらを
ですが、当時の振り班の「みっつん」「おおにょさん」「くまっきー」「はな」「はんな」の皆様をいっぱいお声かけをしてくださったのを覚えておりますが、、、あまり話しませんでした。(ごめんね、青春☆)
それでも、自分より大人な人たちに囲まれるのは、ちょっと地元のような感覚があり、居心地は良かったんです。(当時の方々、皆様にお伝えしたい。)だから今まで続いてるんです。
居心地が良かったので、練習は皆勤賞かつ19時前には練習場所に到着しているような優等生。ストレッチも黙々とこなし、練習も黙々とし、休憩も黙々と取っていました。そして黙々と帰ってました。(黙々黙々、、、ゲシュタルト崩壊?)
その成果が動画に残っているみたいです。運動神経だけで踊っていたので、当時の振りを振り返るのはとても恥ずかしい。ですが、よろしければ観てください。(画角と画質が時代を感じさせますね。)
また当時の夢源風人は総踊りを積極的に踊っておりまして、「しげじぃ」(notなかじぃ)という方の「ぶんだら節」が好きでした(今はもう振りはおろか、曲すらも出てこない)
最初は、コミュニケーションおばけのあきべーくんが「苦手」だった。
今の夢源風人の中で先輩は4名います。みっつん(今と変わってない。職業チャラ男ではなかった。)、ぶんちゃん(今と変わってない。お酒は弱くなったと関係者談)、なかじぃ(今と変わってない。本当に変わってない。)、はな(当時身長123cm、本人談)。この4名には頭上がりません。
※つもりさんは、僕が入る前に抜けてるので、、、
そして、一番近い後輩は、あきべーとかなあみです。
ふふふ、私の方が加入したのは先輩なの。知らなかったでしょ?(その頃、既にチーム外では有名人さんでしたが、話さなかったので、そんなことは分かりませんでしたw)
あきべーくん。
彼ね、すごい話しかけてくるの。後、距離感の詰め方が”剣道”。なんかバッ!!って詰めてくる。わかるでしょ?
「何?この人類。。。めっちゃ顔近いやん」って印象しかなかった。「しかも、めっちゃ、やんやん言うてるやん。。。」って感じ。
彼と話すようになったのは、2006年のよさこい祭りが終わってから。
仲良くなれると思ったら、距離の詰め方は、私が”剣道”。相手は困惑。(なんか、いろんな人、ごめんね。)
今では、仲良し。出会った頃は人の家でお互いパンツ一丁で、一つの布団で寝ることになるとは思わなかったよね。
正真正銘の柴田彰洋くんです。
今はこんなにも仲良し☆
数年後の「あきべー」と「ハル君」(もちろん無許可)
すべてを変えた2006年よさこい祭りの前夜祭。十人十彩の衝撃
さぁ、ちょっとここで、よさこいの話しでもしましょうか。
あの頃の私にとっての「よさこい」は夢源風人が全てでした。三國無双から着想を得た振りもキムタクをイメージした衣装も、航海に向かう楽曲も手作りの地方車も、代表1人副代表2人の三人で天を目指す「夢奏人(かなで)」というテーマも「これが俺らのよさこいやぁ!!」って気持ちでいました。あ、もちろん、自分たちが一番だって、心の中ではいつも思ってるよ!New video by ぴとぅめもりーphotos.app.goo.gl
動画があったっ!地方車も昔の規定だから、お顔がある!
そんなこんなで初めてのよさこい祭り。行きのバスの中で、初対面の方多数の中で自己紹介をするという地獄を味わいながらもたどり着いた高知。その後、14年も続けていくことになるとも知らずに。
行きのバス内、とてもワクワクしてそうな顔(・_・)
以前はホテルに着く前に、前入り班が組み立ててくれた地方車を見に行って、地方車から大音量で流れる曲で踊って、気持ちを高めるというようなことをしてたんです。
そしてホテルに着いて、どうしようかなぁと思っていると同室の子(練習で何度か話したことのある「たけなみくん」)が「たいが、前夜祭行くで!」と声をかけてくれたので、付いて行くことにしました。(私、従順)
そして訳も分からず、ロスインから中央公園まで徒歩で向かいました。今と昔で何が変わったかなと思い返すと、2006年は高知駅会場がなく、高知駅も新駅舎になるまでだったかなぁ。。。
なんやかんや10分~15分くらい歩いてたどり着いた中央公園。既にすごい人数の観客がいて、それはそれで圧倒された。(聞いてないやん、よさこい祭りがそんなに大きいお祭りだなんて。だって、大阪ではそんなに観客集まらないし。)
審査員席の下で三脚を構えていたオジさんの横を陣取り、ドキドキしていると♪ダンダンダダンッ!ダンダンダダンッ!!と、始まったチームの演舞。
十人十彩2006は、その当時持っていた私の「よさこい」の概念をいとも簡単に崩しました。
音の迫力、洗練された衣装、振りの完成度、隊列美、そのすべてがかっこよくて、凄かった。どれくらい凄かったかというと、凄かった以外の語彙が消し飛ぶくらい凄かった。
上の動画は何回も観たし、携帯の着メロを十人十彩2006にしてたくらい大好き。
私は未だ、この演舞を越えるモノに出会えていない。もちろん演舞の質とかクオリティ、創造性とか考えると、今のよさこいの方が進化していると思う。進化していなければならないとも思う。ただ、その時の知識、気持ちや経験との相互作用から考えると、十人十彩の2006を越える作品はない。
この年の十人十彩は前夜祭グランプリ、よさこい大賞の2冠に輝きました。やっぱり、凄いっっっ!
そして、この時のたいがくんに教えてあげたい。
「あなたは何年後かに十人十彩2006の振付師、田村千賀に出会えるよ。」と。
出会ってから何年かすると、毎朝LINEで朝の田村千賀動画が送られてくることになるよ、、、と。(snowで、超絶カワイイ先生が毎朝拝めるよ☆)
前夜祭の衝撃をそのままに、始まった夢源風人2006でのよさこい祭り。
こんなに暑いなんて聞いてない!
こんなに踊るなんて聞いてない!!
こんなに楽しいなんて聞いてない!!!
人見知りひきこもり少年の感情は揺さぶられまくってた。
当時体験したこと、思ったこと。(一部抜粋)
お客さん、めっちゃ団扇で仰いでくれるやん。
待って、唐揚げとビールを差し出してくれるけど、踊ってる途中やで??
隣の人と目を合わせて踊るの楽しいっ!
きゅうりで乾杯って何?そんで味噌つけるのは意味わからん。
個人賞って何?めっちゃ嬉しいですけどーーーー!!!
何でバスが通るん?
終わりたくない、終わりたくない、終わりたくない、、、
ヒトはカルチャーショックに出会い続けると、壊れます。(経験談)
感情の波にさらわれ、高知の温もりに酔わされ、土佐の夏に踊らされ、、、気づけば、夜の追手筋の待機。向こう側で待機している別チームと一緒に気持ちを盛り上げ、スタッフの方のgoサインとともに、光に照らされた会場へ走り出す。高ぶる感情とは裏腹に、「終わりたくない、終わりたくない、終わりたくない、、、」という切なさがこみ上げる。まだ明日があると分かっているのに止まらない。
多分、それまでの私とは違う私がそこには居た。あふれ出る感情に心は爆発してた。隊列が横だった「ちゃむさん」に泣きながら、笑いながら、感情をぶつけるように踊ってた。
その光景はニワトリの私でもすごく鮮明に覚えてる。きっと、あの時、私の「よさこい人生」は動き出したんだと思う。
「よさこい」がそんなに好きではなかった私を受け入れてくれたチーム。
いつまでたってもほとんど話さないのに、声をかけてくれたメンバー。
一人にならないように気にかけてくれた、スタッフ。
2006年の高知で感じたのは、「目には見えない思いのつながり」でした。
私の大好きな言葉です。
あとがき
まだ続くんかぃ!って思ったあなた。
同じことを私も思っています、奇遇ですね。取り留めもまとまりもないことをよくこんなにつらつらつらつらと書けるものですね(・_・)
これ、最初はですね。2012年くらいまでを書こうと思ってたんですよね。でも、タイトルとか考えてるうちに、2012年が減り、2011年が減り、、2008年も2007年もDelete。2006年一年分しか書ききれませんでした。
2006年以降を書くかは、ここまで読んでくださった皆様の反応次第です☆
最後に、、、
今年のよさこい祭りはないけれど、来年の高知の空はきっと青空です。
必ず、心が爆発するような空間と時間があなたを待っています。そう、2006年の私のように。
2006年の私(全く何もどこも変わってないですねぇ)
さて、ちょっとした小説です。長くなります。
わたしのこと好きな人以外はもう読むのはやめたほうがよいかもしれません。「閉じる×」を押すなら今です。閉じるはあっち↗、読む人こっち↓
始まりの場所は、中学校のダンス授業。二十何年前に遡ります。その時一緒に踊った友達と、高校に入ってダンス同好会を立ち上げました。あの頃は高校にダンス部があるところなんて周りにはなく(あの有名な日本高校ダンス部選手権も2008年から開催)、同好会を作ったはいいけどしばらくずっと女子4人で活動。授業中ずっと寝て、放課後は渡り廊下の窓を鏡がわりに踊り、職員室でアイスを食べる、そんな青春時代。ダンスを大人になってもするなんて思いはこれっぽっちもなく、コンテストに出るとかそんな話も一切なく、ただただひたすら踊ってしゃべってはしゃぐ毎日。それでも後輩は増え、3年の時には同好会から部に昇格。(現在は、校内で1・2を争うマンモス部になっているとか!Σ(・□・;))そして。
そのダンス部から、わたしにとって奇跡的な縁がつながります。
「一緒に夏祭りに出てくれませんか?」
ダンス部が地元のよさこいチームさんに誘われたのが、わたしのよさこい人生の始まりでした。二十数年前、大阪によさこいチームがまだ2チームくらいしかない頃のお話し。誘ってくださったのは地元のおばさま方のよさこいチームさん。はじめて鳴子を持ったのはピチピチの18歳。高校卒業してからそのお姉さま方のよさこいチームへ入会し、第1回こいや祭りでも踊りました。このころから年代の違う人たちと話すことが大好きでした。世界が広がりました。ダンスとよさこい、踊りたければどちらも選択できた転機の時に「よさこい」を選んだのは、ここかと思います。
世代の違う人とのつながり。
はじめて振り付けもさせてもらいました。小学校の運動会の演目として踊ってくれるということで教えにいったりもしました。
よさこい沼への1歩目は動画で見た2002年高知での「四国開発グループ」、そして北海道「三石なるこ会」。当時はVHS。擦り切れるほど見ました。生では見れなかった。というか、別世界のテレビの中のアイドルみたいなイメージで、見に行くということを考えもしなかった。そして、看護学校の実習地獄から抜け社会人となった2004年、知り合いもいない関西の合同チームに ひとりで乗り込み、高知のよさこい祭りに初参加、初花メダル。(後々、長い付き合いになる人たちがここにたくさんいました…) その時は「楽しかった!いっぱい踊れた!興奮!また来たいな。」って感じの感想のみだったかと思います。
他のチームに所属している時期があったり、どこにも所属していないときもあったりしながら、「大阪でよさこいをしていると自然とたどり着く場所」という感覚で、夢源風人と出会いました。わたしが最初に感じた、この手を伸ばせばそこにある感覚は、今でも大事だなと思っています。はじめてよさこいに触れたいと思う人が手を伸ばせる距離にいたい。そんなチームでありたい。(話がズレました…)
夢源風人ではじめて踊った作品は、夢源風人3期「2004思いの花火」。わたしが一番大切にしている曲。「あ、ここで踊ってみたいな」そう思った幸せへのきっかけの演舞曲。
結成からこの年まで、夢源風人の衣装と言えば「片袖」の衣装。2004年は小さな衣装替え(袖が長くなる)もあった演舞でした。
そして、高知の衝撃に出会ったのは2005年の夏。よさこい祭りに夢源風人サポートスタッフとして参加しようと、8月10日の朝、一緒にスタッフをする友達と高知駅到着。はじめてで地理もわからず、とりあえず「はりまや橋」行きのバスに乗ってみました(今なら歩く)。どうやらそのバスに乗ったことで、わたしは高知から離れられなくなったようです。
ネットで「杉田佳奈美 よさこい」と検索すると、この文章にぶち当たることがあります。
夢源風人の2007年チームリーダーの杉田佳奈美さんに、なぜ?県外から高知に踊りに来る?をテーマによさこいを語っていただきました。素晴らしく熱いぜよ!
~略~私が初めて高知よさこいに行ったとき、高知の方のあたたかさに触れました。たまたまバスで一緒になったよさこい好きのおじさんが一緒にご飯を食べようと言ってずっとよさこいの話しをしてくれました。そして食べ終わったらうちらの分もお金を払ってお祭りの街へ消えました。お土産屋さんでお店の人と話しをしていたら売り物の桃をもらいました。演舞中も、観客の方がうちわであおいでくれることに感動して自然と笑顔で踊っていたり、地方車から観客の人をビデオで撮っている自分がいたり・・・
踊っている途中にみかんをくれるおばあちゃんがいて、みかんを持ちながら踊ったり。笑。毎年無料で飲料提供してくれる高知の業者さんもいます☆街のあちこちにあたたかさがいっぱいなんです。だから私は高知を愛しているのかもしれませんね。
夢源風人の2007年チームリーダー杉田佳奈美
(26歳の文章!!ちょっとなんか恥ずかしい!)
いま振り返るとあのバスで一緒になったおじさまが、はじめての土地で少し不安だったわたしのココロを一瞬で溶かし、高知の門を一緒に開いてくれたのだと思います。まさに高知家そのものでした。
そして2006年5月7日(あきべーとたまたま同じ日)、夢源風人メンバー登録をしました。まだ入ってなかったんかい、笑
その頃まではね、日本全国あちらこちらのチームにお邪魔して、高校の時のような青春を走っていました。
札幌のチームにひとり飛び込みどまつりで踊ったり、早稲田大学で踊り侍さんに混じったり、東京農大や、ソーラン、雪まつり3daysにも行った。もちろんぴとぅでも時々踊っていた。ひたすら楽しい、楽しい、友達がたくさんたくさん増えた時。全国につながりがつくれた大事な時。こんな風に自由に飛び回ってたわたし。なぜ急に夢源風人の正規メンバーになったのか。
それは。2005年夢源風人高知スタッフとして中に入ったとき、一生懸命だった運営スタッフさん達を近くで見てしまったから。わたしに手伝えることがあるかもしれない、このチームに何かできることがしたい、そんな思いがその頃から溢れだしました。
そうして、夢源風人のメンバーとして迎えた2006年夏の高知。9日前夜祭。
観客席の後ろの後ろのうしろーーーの方で背伸びをしながら頭と頭の間から、ステージを見ていました。その瞬間。
「ある演舞を見た瞬間」わたしは深い深いよさこい沼へ魂ごと落ちました。
光の中に。一人きり。こどもに戻って、何も他には見えず。演舞だけしかそこにはない。そんな感覚。――――終わったら、涙があふれていた。
(わたしこの感覚、まるまんてんの歌詞に勝手にリンクされるの。~略~強く強く心よさけべ この道の先はまだ 愛をさけべ この夏の夜に 指折り願い 舞い上がる光―)
あの時の演舞が、ずっと先に出逢う千賀先生の振り付けだったと知るのは、その10年くらい後のこと。
2006年10月、夢源風人6期代表になりました。メンバーになって5ヶ月での代表就任。今では絶対に考えられない期間(その時代でも異例ではありましたが)。代表決定は承認制。最初に全員に送った立候補メールはもう手元に残っていませんがなんとなく覚えています。まだ若造で。大切なものが見えきれてないけど。思いだけはおもいっきり入れ込んだ。そんな文章だった記憶です。当時わたしは25歳。今ぴとぅの中核で動いているメンバーがたくさん初スタッフとして動いてくれた年。スタッフ陣の平均年齢が一番若かった年なのではないかな。全国のチームさんに声をかけて、ぴとぅ花見交流会を初開催しました。(初期は源人花見と言って、夢道源人さんとの花見はしていたそうよ☆)開催に向けての準備で、いろんなスタッフさんとたくさんお話しをしました。お花見当日より準備期間の方が濃い時間だったことを今でも覚えています。MC班をはじめて作った年でもあります。素敵な思い出。
「花の虹」踊り子それぞれの花が咲き、みんながつながって虹になる。
チーム運営も、演舞も、そんな世界を作ることを夢とし走った1年でした。
6期代表以降、事務局・衣装担当・広報担当・振り担当など各年いろんなことをしておりました。スタッフでない年もありました。
代表は、もうするつもりはありませんでした。ネガティブな意味ではなく、わたしが引っ張る時は終わった!と思っていたから。
それが13年経った今、代表。どうして?
答えは・・・よく分かりません。
次だれが代表する??となって過去代表が集まったのが18期の梅雨時期でした。代表と決まる10分前まで、まったくする予定はなかったのだけど、「あれ?流れがこっちにきたな…あ、わたしやるべきときなのか」って思ったら、代表になりました。そう思った理由を自分の中に探すとしたら、
「ぴとぅを無くす選択肢は、わたしの中にはなかった。」これだけだと思います。立候補者がいなかったら夢源風人は解散というスタイルで19年間つないできました。だから。
やる予定はなかったのに、迷う時間なく就任。という不思議感覚。決まったときは19期20期2年代表すると宣言しました。なぜかコロナさんのことがあって3年になりました(*’ω’*)アレ?笑
そして。
幸せなことに、たくさんの人に支えられ、今があります。
今回、コロナさんのことがあってたくさん考えることがありました。一番大事なところが丸裸にされて見えてきた期間でもあったなぁ。いろんな話をしても、最終結論はいつもここでした。「みんなに会いたい」
すべてが無くなっても、「心だけはつながっていたい。」
夢源風人のメンバーは、踊り子さんもスタッフさんも一晩かけて話すことができるくらい、人として素敵です。一生懸命で、思いがあふれていて、ちゃんとつながっている。ぴとぅの演舞で素敵なところは「踊っているメンバーが、演舞でお客さんとお話しができること」。
夢源風人のまわりにいてくれる方々も素敵。お祭りにいっても、どこにいっても、笑顔があふれる。そんな世界に存在できることは幸せでしかない。
本当に大切なもの。この幸せがどんどんつながっていくことを願って、みんながいつでも帰ってこれる場所であることを想って。
最終章を書くことはきっと、ないでしょう。
いつも。
ありがとう。
わたしが今これを書いているのはどうしてなのか。普段のように活動できなくなった中で、何に気づいたのか・・・。
SNSを見ていても、お友達とお話ししていても、各地のお祭りや、チームさん、みんなが、これまでしてきた活動の意味を、今、見つめていると感じます。毎年変わらずあると思い進めてきた活動の中で、どこか意味が薄れ、楽しさが勝ったり、作業になったり、違うところが大きく見えていたところもあるのかもしれません。
最初に大事にしてきたことは何か。本当に大事にしたいことは何なのか。今年しかない学生チームさんは、様々な思いが交錯する中、今年なんらかの形でやり遂げるために、引退を迎えるために今もたくさんもがいています。
それぞれの1年。いままでにない1年。この1日が。ひとつずつきっと未来につながっている。起こることすべてにきっと意味がある。
縁、つながり。
これはわたしにとって、わたしの思いを形作るすべてなんだろうと今は思っています。