Archive: 9月 25th, 2021

よさこいがなくても生きていけるけど,よさこいがあるから人生は楽しい。

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こんにちは,うっでぃです。
気付けばぴとぅに出会って丸10年,ぴとぅに来るようになって,今年で10年目。
すっかり古株の割にコミュ力が低く存在感の薄い僕ですが,この度ブログの声がかかったので,書きます。

場さえいただければ割とよくしゃべるので長くなると思います。


祭りと踊りは自己表現方法の一つ

地車が盛んな地域で育った僕にとっては,お祭りは小さな頃から身近なもので, 毎年やってくるのが楽しみな日。

小学生の頃は今にさらに磨きをかけた真面目少年で,先生や他の子からも「良い子」としてみられることに全力で生きていたので、学校ではあまり自己主張できず,素も出せずにいた。

けど,家に帰ってから兄や仲の良い友達と遊ぶときは人が変わったようにしゃべるし,遊びまわるし,それなりに行動的な面もあった。

そんな僕にとっては,祭りの日はめずらしく自分の素を出して,ありのままになれる日。
ある年の地車祭りで普段あまり話さない同級生と会ったときに,「めっちゃしゃべるんやね!普段と全然違って別人みたい!」と、言われたことがあった。

自分を知ってもらえたような気がしてうれしかった覚えがある。

祭りとよさこいが好きなことの原点はここにあるのかなと思う。


そんな自分が踊りに初めて憧れを持ったのが,小5の時。
地元の小さな祭りで当時中3の兄が,学校の行事の一環で「南中ソーラン」を踊るのを見たときだった。


普段見せないくらいの笑顔で踊る兄と,何より大人数で踊るカッコよさに圧倒され,「自分も中3になったら絶対に南中踊る!」と心に決める出来事になった。

時が経ち,自分も中3になる。伝統としては残っていたけど,有志で声が上がれば文化祭で踊るというような形式に変わっていたので,声が上がらなければ踊ることはない。

普段はあまりガツガツ前に出ることはなかったけど,このときに限っては誰よりも先に学年の皆に声をかけて先頭に立って頑張ったことを覚えている。

迎えた本番はとにかく夢中で心地よくて,大人数で一つのものを作り上げる達成感と踊ることの楽しさを強く感じた。

おとなしかった自分が、踊りを通して変わったと感じられる経験になった。


よさこいと夢源風人との出会い

よさこいとの出会いは大学時代のサークル。

新歓のときに先輩が踊っていた南中をみて、中学の記憶がよみがえり,再び踊ることへの憧れが強くなって,入部(入サー?)。楽しくて仕方なくて、それからはよさこい沼にハマっていった。

学生時代の自分は今の自分からすると考えられないくらいのよさこいバカで、毎日自主練は当たり前だったし,他チームにいろいろ行ったり,県外の祭りにもいろいろ参加したり,他大の友達には「どこ行ってもおるな(笑)」と言われたこともあった。


当時できた繋がりが今も続いていたり,踊ること以外のよさこいの楽しみを知れたので,人見知りなりに顔広げててよかったなぁ,と思うことは今でも多いです。
ぴとぅを通して再会した人も実はそこそこいるのがけっこう嬉しい。

そんな感じで沼にハマりにハマっていた当時は,走って間に合うところならすべて参加するほど総踊りが大好きで,2011年の神戸よさこいでは,それなりに距離のある会場でもとりあえず走って総踊りに参加していた。


日が暮れてその日最後の総踊りに参加するべく高浜岸壁会場にいたとき,衣装に目を惹かれたチームを発見。

当時は高浜岸壁会場は大阪湾をバックにしていたので,真っ黒な背景に,衣装の明るい色がとても映えていて,目を奪われた。

そして曲がかかると,曲にも踊りにもすぐに心を奪われて,「このチームで踊ってみたい!!」と一瞬で虜になった。

それが夢源風人との出会いだった。

☟当時の動画
https://www.youtube.com/watch?v=46dwg2y3yrc

その年のぴとぅに参加していた大学の先輩がいたので,間をとりもってもらう形で連絡し,冬頃にぴとぅの練習に初参加することになり,2012年の高知はぴとぅで行こうと決意した。

ぴとぅでの初めての演舞は2012年,「かざぐるま」。

この年の地方車は風車数百本で作られていて,見ていても涼しく、綺麗で、すごく思い出深い地方車だった。本祭1日目の夜に大雨が降ったときには水車になった。圧巻だった。

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初めての高知はとりあえずすべてがキラキラしていて,「終わるな,終わるな」と思いながら踊っていた覚えがある。


高知の魅力に触れて,また帰ってきたいと思える場所になった。

翌年から正式にぴとぅのメンバーとなり、多くの人に出会って、いろんなことを経験させてもらい、たくさんの思い出をもらった。

ぴとぅに入って自分の人生は大きく変わった。入ってよかったと心の底から思う。

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よさこい観が変わった千賀先生の言葉

2014年に初めて先生練があったときに,千賀先生にもらった言葉が,今の自分のよさこい観になっている。

「よさこいが苦しくて嫌なら離れたらいい。それでもいま皆が踊っているのは,みんなよさこいが好きだからでしょう。よさこいがなくても生きていけるけど,よさこいがあるから人生は楽しい。」

この言葉は当時も心には響いたけど,一番よく感じたのはよさこいを始めて以降唯一踊らなかった2017年。
踊りに対しての気持ちがよく分からなくなって,苦しむくらいなら一度離れようと,思い切って離れてみた1年。

それからカメラにハマったり,旅行にハマったり,今までやりたかったけどしていなかった趣味に身を投じようと,1年を過ごしていたのだけど,8月になって,よさこい祭りが近づくと,やはり気持ちはよさこいに流れ,祭りの3日前くらいに見に行こうと決意して,8月10日には高知にいた。

そこで感じたのは,踊っている人たちがうらやましかったことと,自分はやっぱり見るより踊る方が好きだな,ということ。その夜は,踊らなかったことを後悔して,いっぱい泣いたことを覚えている。

だから,その翌年また高知に踊り子として帰れた時は,それまで以上に踊れることへの喜びが感じられた。踊らない1年があったからこそ気付くことができた気持ちだから,今はそういう意味ではあってよかった1年かなと思う。

今は昔ほどの熱意はないし,踊らないでいたいと思う時もあるけど,嫌いになったわけではなくて,距離を取りつつずっとよさこいが好きな中で日々過ごすことができている。少なくとも,この先よさこいのない人生は今は考えられない。
よさこいのおかげで今の人生すごく楽しいです。


特に自分に当てはまるのだけど,一度よさこいから離れてからもう一度戻ろうと決意することにすごくエネルギーのいる人もいる。でも,その一歩が踏み出せたらまた楽しい世界の中に飛び込める。

今よさこいからすっかり離れていて,心のどこかで「もう一度踊りたいな」って少しでも思っている人がいるなら,ぜひ一歩踏み出してみてほしいと思う。

よさこいがなくても生きていけるけど,よさこいがあるから人生は楽しい。

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このWebサイトはぴとぅ広報班が管理しています。
よさこいがなくても生きていけるけど,よさこいがあるから人生は楽しい。
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こんにちは,うっでぃです。
気付けばぴとぅに出会って丸10年,ぴとぅに来るようになって,今年で10年目。
すっかり古株の割にコミュ力が低く存在感の薄い僕ですが,この度ブログの声がかかったので,書きます。

場さえいただければ割とよくしゃべるので長くなると思います。


祭りと踊りは自己表現方法の一つ

地車が盛んな地域で育った僕にとっては,お祭りは小さな頃から身近なもので, 毎年やってくるのが楽しみな日。

小学生の頃は今にさらに磨きをかけた真面目少年で,先生や他の子からも「良い子」としてみられることに全力で生きていたので、学校ではあまり自己主張できず,素も出せずにいた。

けど,家に帰ってから兄や仲の良い友達と遊ぶときは人が変わったようにしゃべるし,遊びまわるし,それなりに行動的な面もあった。

そんな僕にとっては,祭りの日はめずらしく自分の素を出して,ありのままになれる日。
ある年の地車祭りで普段あまり話さない同級生と会ったときに,「めっちゃしゃべるんやね!普段と全然違って別人みたい!」と、言われたことがあった。

自分を知ってもらえたような気がしてうれしかった覚えがある。

祭りとよさこいが好きなことの原点はここにあるのかなと思う。


そんな自分が踊りに初めて憧れを持ったのが,小5の時。
地元の小さな祭りで当時中3の兄が,学校の行事の一環で「南中ソーラン」を踊るのを見たときだった。


普段見せないくらいの笑顔で踊る兄と,何より大人数で踊るカッコよさに圧倒され,「自分も中3になったら絶対に南中踊る!」と心に決める出来事になった。

時が経ち,自分も中3になる。伝統としては残っていたけど,有志で声が上がれば文化祭で踊るというような形式に変わっていたので,声が上がらなければ踊ることはない。

普段はあまりガツガツ前に出ることはなかったけど,このときに限っては誰よりも先に学年の皆に声をかけて先頭に立って頑張ったことを覚えている。

迎えた本番はとにかく夢中で心地よくて,大人数で一つのものを作り上げる達成感と踊ることの楽しさを強く感じた。

おとなしかった自分が、踊りを通して変わったと感じられる経験になった。


よさこいと夢源風人との出会い

よさこいとの出会いは大学時代のサークル。

新歓のときに先輩が踊っていた南中をみて、中学の記憶がよみがえり,再び踊ることへの憧れが強くなって,入部(入サー?)。楽しくて仕方なくて、それからはよさこい沼にハマっていった。

学生時代の自分は今の自分からすると考えられないくらいのよさこいバカで、毎日自主練は当たり前だったし,他チームにいろいろ行ったり,県外の祭りにもいろいろ参加したり,他大の友達には「どこ行ってもおるな(笑)」と言われたこともあった。


当時できた繋がりが今も続いていたり,踊ること以外のよさこいの楽しみを知れたので,人見知りなりに顔広げててよかったなぁ,と思うことは今でも多いです。
ぴとぅを通して再会した人も実はそこそこいるのがけっこう嬉しい。

そんな感じで沼にハマりにハマっていた当時は,走って間に合うところならすべて参加するほど総踊りが大好きで,2011年の神戸よさこいでは,それなりに距離のある会場でもとりあえず走って総踊りに参加していた。


日が暮れてその日最後の総踊りに参加するべく高浜岸壁会場にいたとき,衣装に目を惹かれたチームを発見。

当時は高浜岸壁会場は大阪湾をバックにしていたので,真っ黒な背景に,衣装の明るい色がとても映えていて,目を奪われた。

そして曲がかかると,曲にも踊りにもすぐに心を奪われて,「このチームで踊ってみたい!!」と一瞬で虜になった。

それが夢源風人との出会いだった。

☟当時の動画
https://www.youtube.com/watch?v=46dwg2y3yrc

その年のぴとぅに参加していた大学の先輩がいたので,間をとりもってもらう形で連絡し,冬頃にぴとぅの練習に初参加することになり,2012年の高知はぴとぅで行こうと決意した。

ぴとぅでの初めての演舞は2012年,「かざぐるま」。

この年の地方車は風車数百本で作られていて,見ていても涼しく、綺麗で、すごく思い出深い地方車だった。本祭1日目の夜に大雨が降ったときには水車になった。圧巻だった。

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初めての高知はとりあえずすべてがキラキラしていて,「終わるな,終わるな」と思いながら踊っていた覚えがある。


高知の魅力に触れて,また帰ってきたいと思える場所になった。

翌年から正式にぴとぅのメンバーとなり、多くの人に出会って、いろんなことを経験させてもらい、たくさんの思い出をもらった。

ぴとぅに入って自分の人生は大きく変わった。入ってよかったと心の底から思う。

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よさこい観が変わった千賀先生の言葉

2014年に初めて先生練があったときに,千賀先生にもらった言葉が,今の自分のよさこい観になっている。

「よさこいが苦しくて嫌なら離れたらいい。それでもいま皆が踊っているのは,みんなよさこいが好きだからでしょう。よさこいがなくても生きていけるけど,よさこいがあるから人生は楽しい。」

この言葉は当時も心には響いたけど,一番よく感じたのはよさこいを始めて以降唯一踊らなかった2017年。
踊りに対しての気持ちがよく分からなくなって,苦しむくらいなら一度離れようと,思い切って離れてみた1年。

それからカメラにハマったり,旅行にハマったり,今までやりたかったけどしていなかった趣味に身を投じようと,1年を過ごしていたのだけど,8月になって,よさこい祭りが近づくと,やはり気持ちはよさこいに流れ,祭りの3日前くらいに見に行こうと決意して,8月10日には高知にいた。

そこで感じたのは,踊っている人たちがうらやましかったことと,自分はやっぱり見るより踊る方が好きだな,ということ。その夜は,踊らなかったことを後悔して,いっぱい泣いたことを覚えている。

だから,その翌年また高知に踊り子として帰れた時は,それまで以上に踊れることへの喜びが感じられた。踊らない1年があったからこそ気付くことができた気持ちだから,今はそういう意味ではあってよかった1年かなと思う。

今は昔ほどの熱意はないし,踊らないでいたいと思う時もあるけど,嫌いになったわけではなくて,距離を取りつつずっとよさこいが好きな中で日々過ごすことができている。少なくとも,この先よさこいのない人生は今は考えられない。
よさこいのおかげで今の人生すごく楽しいです。


特に自分に当てはまるのだけど,一度よさこいから離れてからもう一度戻ろうと決意することにすごくエネルギーのいる人もいる。でも,その一歩が踏み出せたらまた楽しい世界の中に飛び込める。

今よさこいからすっかり離れていて,心のどこかで「もう一度踊りたいな」って少しでも思っている人がいるなら,ぜひ一歩踏み出してみてほしいと思う。

よさこいがなくても生きていけるけど,よさこいがあるから人生は楽しい。

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