Archive: 4月 24th, 2021

12年くらい前の話

わたるんです。

では、簡単に自己紹介を、、、
・2008年10月にぴとぅのメンバーになる(8期がスタートした頃)

・12期までは踊り子として祭にも参加していた

・ぴとぅの公式サイトに関わっている

きっかけ

2008年4月、当時の職場でぴとぅのメンバーの人に出会いました。
それがきっかけとなり、今に至ります。

昼休みの食事中にほぼ毎日、よさこいの話をしてくる人がいました。ぴとうのメンバー(8期の副代表)の人でした。

半年くらいそんな日々が続いて、練習会の見学をさせてもらうことになり、
2008年10月のとある水曜日に大阪城公園に行きました。

見学するだけのつもりだったのですが、
鳴子を貸してもらって、振りを教えてもらうことに。

自分にできるのか心配であったものの、
その日のうちにメンバー登録しました。

高知よさこい祭りに向けて

その後の練習会はほぼ毎回参加して、
あと、イメージ・トレーニングをしたり。
メンバーになる前とは全然違う生活になりました。

練習の甲斐あって、高知のよさこい祭りにもなんとかいけました。

はりまや橋にて

広報の一員として

2年目からはぴとぅの公式サイトの管理にも関わります。
※当時は広報じゃなくてHP班という名称でした。

当時はほぼ何も知らない状態だったのでギャップを埋めるべく、入門書を数冊読み漁って、HTML, CSSを2ヶ月ほど、その後はPHPという言語を勉強。その後CMSというものを導入することになって、データベース(DB)の勉強。あとはGoogle Apps Scriptとか。その都度色々と吸収していきました。

最後に

これからもなんらかの形で関わっていくつもりです。

いつも誰かが繋いでくれた、よさこい

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初めまして。りこです(*´꒳`*)
よさこい 歴16年目、ぴとぅ歴6年目、気づけば人生の半分以上よさこいをやってました。笑
よさこいとの出会い、ぴとぅとの出会いお話しできたらなと思います。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。(*´-`)

今思えば、自分の人生、よさこい人生、ずっと誰かからの繋がりで、繋がってきた人生だと思います。

★小学校の先生が繋げてくれたよさこい

小学校5年生の時に引っ越してきた大阪の学校で、よさこいを知ることになりました。
私は、夏休みに関東から引っ越してきたのですが、秋にある運動会で踊るよさこいの練習中でした。
よさこいというものを初めて知った瞬間です。
運動会では、毎年10月に開催される「大阪メチャハピー祭」の総踊り曲を踊る予定でした。
当時の私は、総踊りの中で声を出す「儲かりまっか」や「ぼちぼちでんな」などに少し抵抗があって、よさこいをそんなに好きにはなりませんでした。(思春期ですかね?笑)
次の年、これまた運動会で、「南中ソーラン」を踊りました。
これが運命を変えたと思います。
前年の時とは違い、すっかり大阪の学校にも慣れ、最終学年ということもあり、ものすごく気合いを入れて踊りました。友達とたくさん練習したことも覚えています。
運動会も無事終わり、すっかり南中ソーランの虜になった私たちに先生は、

「みんなでよさこい祭りに出てみないか?」

と誘われたのです。
私たちには、「出たい!!!」しかありませんでした。
その年の10月、学年の有志で(学年のほとんどの子がいた)「大阪メチャハピー祭」に出場しました。
(今思えば、保護者への説明や引率など、先生の苦労は計り知れなかったと思います。)
そこで、よさこいというものを知りました。
笑顔で、活気があって、みんなキラキラしていました。
いろんな踊りがあって、みんな違って、みんないい!!
私たちもよさこいをしたい!!!いつの間にかそんな気持ちになっていました。

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当時の写真見つかりました。ネット恐るべし。。

★親たちが繋げてくれたよさこい

出場した大阪メチャハピー祭りで見たあるチームの影響で、よさこいチームを立ち上げることになりました。
それは、「風神」です。
自分たちの演舞が終わってから、何チームか見て、このチームが目に留まりました。でも、遠方だったので、現実的にチームに入ることは難しかったのです。
そこで!なんとかよさこいを出来ないか?と立ち上がってくれたのが、私たちの親たちでした。

地元でチームを立ち上げよう!!

右も左もわからないまま、とにかくよさこいをしたい私たちを踊る場所を作ってくれた、親たちには感謝しかありません。
自分たちでチーム名を考えて、衣装や練習場所の確保、全て一からでした。
でも、全て親たちや先生たちの手助けがあって、なんとか立ち上げることが出来、そのチームは今でも存続しています。結成2年目の年の大阪メチャハピー祭りの大賞にあたる「メチャハピー賞」も受賞することが出来、一生忘れることのない思い出の一つです。

これが私とよさこいの出会いでした。

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おそらく、結成後一番初めに出たお祭り。下が鉄板のように焼けていて、裸足だったので、めちゃくちゃ火傷した覚えしかない、、、。笑笑

★かなみさんが繋げてくれた夢源風人

時は流れて、私は、新社会人1年目になりました!(飛びすぎやろ!笑)
もちろん、ずっとよさこいは続けていました。全ていろんなご縁があって、何個かのチームにお世話になっていました。そんな時です。
私は、GWに開催されるお祭りに笑輝というチームで参加していました。
その時、たまたま一緒に参加していたかなみさんに出会い、お互いゲストで参加していて、いろんなお話の中に夢源風人の話がありました。

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もうよさこい人生も長かったので、もちろんチームは知っていたし、一度見学に行ったこともありました。笑
当時は、あふさかんシンフォニーの年でした!動画を見て、まず踊りたい!と思いました!
その時にお話をし、見学に行くことになりました(^^)
見学後は、すぐチームに入る決断をし、秒で振りを覚え、すぐにデビュー!笑笑

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デビューは、これの前。デビュー時の写真なかった。笑

そんなこんながあり、今があります。

★最後に。。。

私がよさこいを始めるきっかけになったことは、ものすごくレアケースだと思います。(聞いたことない。笑)
でも、よさこいの魅力に触れて、それが輝いて見えて、そこに飛び込みたい!と思った気持ちは、皆同じではないかと思います。
どんなきっかけでもいいです。
よさこいをしている友人がいたら、
見に行ってみて下さい。
よさこいをたまたま近くでイベントしていたら、
足を運んでみて下さい。
きっと、その魅力に引き込まれると思います。
引き込ませますっ!!

そして、よさこいをやってみたら、いろんな繋がりに出会えると思います。
よさこいをやっている人は、いろんな趣味や仕事、よさこい以外に何かしている人がものすごく多いと思います。

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コスプレだって、しちゃいます!笑

私は、縁があって、夢源風人までたどり着くことが出来ました。
ブログ見てくれているあなたにも、たくさんの縁が届きますように。。。


読んでくれてありがとうございました!!!

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踊ることは生きること

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ベビーが生まれるのが先か、ブログ書き上げるのが先か—
と言われ、慌てて書き始めています。ぜろです。広報班として主にInstagramの更新をしています⭐︎

ブログの締め切りが予定日6日前。
ブログが公開されるころには、ベビーも公開されてるかもです。

4代目のわたし

よさこいと出会うまでが長かった、わたし。
ちゃんと鳴子を持って踊る「よさこい」を踊ったの、わりと最近です。

わたしと「踊り」との出会いは、幼少期。
物心ついた頃から「踊り」がすぐそばにある環境で育ちました。
日本舞踊や民謡が好きでお稽古に励み、踊ることが大好きな家族。
曾祖母、祖母、母と続き、4代目のわたし。
「足が痛いから、今日のお稽古は見に行くだけ」
と言って出掛けたのに、がっつり踊って帰ってくる祖母。わかる。
事あるごとに、「頭痛は踊ったら治る」という祖母。それも、わかる。
しっかり隔世遺伝してます。
ちなみに母は共感できないらしい。たぶん、それが普通。

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ちょうど50歳離れてる、祖母とわたし。
祖母は今もバリバリ踊っています!

初舞台は3歳くらい。
やりたい放題だったみたいだけど、地元の民謡、宮津節を踊り(?)ました。
ーやりたい放題だったみたいだけど。
そこから日本舞踊と三味線をはじめ、気付けば高校を卒業するまでずっと続けるほどにのめり込む。
辞めるという選択肢はなくて、受験や足の手術をはさんだりしたけど、生活から切り離すことはありませんでした。

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「汐汲」 高校2年生のとき

日本舞踊の次は、、、

大学は地元と離れてたところに進学したので、やむを得ず高校卒業とともに習い事はすべて卒業。
学生生活、何しよう—
大学でも踊ろう!絶対!どこで踊ろう?と「踊る場所」探し。
部活・サークル紹介を真剣に見て、心惹かれたのはチア!
(…日本舞踊どこいったん?)
仮入部期間はずっとチアでしたが、入部寸前で練習が週7であることを知り、断念。
週3って言ってた…のに…
勉強や実習との両立が不可能だと思ってチアを諦め、友達が行っていた「京炎 そでふれ! 京小町」に体験もせずに気づけば所属。

わたし、当時はすごく省エネで、勉強や実習に力を入れていたため、そこそこの参加率。
踊れたらそれでいい!というくらいの勢いで、しばらくは練習だけ参加していました。
エンジンがかかったのは、入部から5ヶ月後くらいの神戸よさこい参加後からだったような気がします。(どまつり、こいや祭りを華麗にスルー。)
それからは、お祭り楽しくて、実習中であろうが土日にお祭りがあれば出てました。

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「ほな、おおきに!」ってしてました。

初めての高知

そして引退&卒業。
また「踊る場所」を失い、転職先を探すかのように次の「踊る場所」を探しました。
社会人1年目。新しいチームができると耳にして見学へ。
練習場所近い!という理由で「かんしゃら」に加入。
実はここで初めて鳴子に触る!高知でよさこい祭りがあることをちゃんと知ったのも、このとき。
他のよさこいチームのことも、全然知らなかった。
当時、ぴとぅのことは知っていたけど、「大阪城公園でのパレード練で正面から向かってくるチーム」、「たぶん大人数のチームであること」くらいしか知りませんでした。
「かんしゃら」では、インストも経験させてもらいながら、解散(後に復活)の2015年までお世話になりました。

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初めての高知 2013
会場移動は電車と徒歩でした(!)

ぴとぅとの出会い

そして翌年は、「よさこいチームそら」で高知へ。
オフシーズンを迎える頃の四日市よさこい。
終わったらどうしよっか—

そう思いながら雨の中見た、自分たちのひとつ前のチームの演舞が忘れられませんでした。

『夢源風人 2016 あふさかんシンフォニー』

なにこれめっちゃ楽しそう!こいやでも見たけど、やっぱり楽しそう!
ここのチームで踊ってる全員が肯定され、認められて、楽しそうなのが伝わってくるのは何??
すごいことじゃない?
と、びっしょびしょになりながら見ていました。


そして次の「踊る場所」を求めて。
人見知りなわたしは、大人数のチームの体験会に行くのは相当なハードル。しかも1人で。
でも踊りたいから、と、腹をくくって心機一転、新たな気持ちで送った体験会行きたいですメール。
あだ名も記載しなくていいや、新たな気持ち、大事。と思って本名で送信。


しかし、返ってきた返事を見て驚愕。

「ぜろやんね?」

え、なんでバレてんの?
本名だけでなぜかあっさりと身バレする。
当時副代表のあきべーさんに、スマホ越しにちょっとキレました。

体験会は本当に楽しくて。
新しい世界でした。本当に。
かなりの人見知りなので、体験会に行くのは相当不安だったけど、
当時の代表、副代表さんに気にかけてもらい、安心して参加できました。
当時の会計のおじさんはちょっと怖かったけど、今はもう話せるよ。

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「ハレ、晴れ」で、ぴとぅデビュー!


そこから足の故障もあり、ぴとぅで高知に参加したのは翌年の2018年でしたが、
高知でのぴとぅの過保護っぷりに度肝を抜かれながら、1年越しの高知を満喫。
また来年、またまた来年。と気がつけばぴとぅも4年目に。
わたし、同じチームで4作目を踊るのは初めてです。

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ぴとぅでの初高知!

わたしが夢源風人に入ったのは、いくら思い返しても偶然の重なり…なような気がします。
偶然の重なりだけど、いつかどこかのタイミングで出会うべきチームだったんだろうな、とも思います。
「踊る場所」を求め続けて辿り着いた場所なのかもしれないけど、それは居心地がよくて、温かい場所。
踊りにまじめに向き合うだけ、でなく、それぞれがいろんな感情を抱いて、思いを感じて、繋がれる場所であることを年々感じています。
25年以上、いろんな踊りに触れてきたけど、踊りとともに感情が色付いていく感覚を味わったのはぴとぅに出会ってから。

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「踊ることは生きること」
と、スヌーピーが言ってましたが、これから踊っていく上でも、生きていく上でも大切な何かに出会えた気がする。
感情を出すのは苦手だけど、楽しんでます!好きです!
まだまだいろんな出会いを、楽しみにしています♡


5代目、踊るかな?

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僕とよさこいと高知

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はじめまして、こんにちは、お久しぶりです。
秦演舞場のある東秦泉寺生まれ(育ちは県外です)のぞえでございます。
今回人生で初めてブログを書きました。長くなるかもしれませんが最後まで読んでいただければ幸いです。

≪よさこいとの出会い≫

このブログを書くにあたって改めて母親に僕とよさこいの出会いを聞いてみました。すると冗談半分に「産まれる前からやないが(笑)」と返ってきました。嘘だろって思いました。詳しく聞いてみると僕の生まれる3ヶ月前の第46回よさこい祭りの本祭を母親が実家のテレビで観ていたそうです。その時にお腹の中で僕が動いたように感じたということでした。自分のことながら本当かよと思いました。追加で現実的な出会いを聞くと翌年の第47回よさこい祭り本祭を見に行ったことらしいです。地方車からの音にあまりびっくりしなかったことが印象に残っているそうです。
僕の記憶では5歳の頃にバスに乗って夜の愛宕競演場を観に行ったのが最も古い記憶です。バスから観た地方車のライトがとてもかっこよかったのがとても印象的でした。

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2020年8月11日の愛宕商店街

≪よさこいにハマったきっかけ≫

幼少期からよさこいと出会っている僕がよさこいにハマった理由をあえて家族に聞きました。すると「地方車」という答えがほぼ全員から帰って来ました。母親からは初めて追手筋本部競演場に観に行った時に会場より地方車の待機場所の方が目を輝かせていたのがとても印象に残ったそうです。
僕も自分の中で改めてハマったきっかけを考えてみました。男性の方は共感される方が多いと思うのですが小さい頃電車や車など乗り物に興味深々だったことはないでしょうか。僕もその一人でした。ただその興味の先が「地方車」でした。一年で二日間(本祭)だけで見える貴重な乗り物という認識でした。また昔は今以上に地方車がトラックでは無い感が強かったので少年心をしっかり掴まれました。それから今に至るまでよさこいの一番好きな要素になっています。

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2017年 夢源風人 地方車

≪観客から踊り子へ≫

僕は毎年よさこい祭りを見に行っていたのですが踊り子として参加したのは高校一年生の時でした。生まれは高知県でしたがその後はずっと県外に住んでいました。なので踊り子になるという選択肢は頭にありませんでした。そんな中で高校生の時に友達から地元のよさこい連に誘われました。その地元チームは高知にもちゃんと参加していたのでその誘いに乗りました。そしてその夏高知デビューをしました。その年は楽しかった記憶より暑かった記憶が強いです。その翌年二度目の夏で夜の追手筋本部競演場を踊ることが出来ました。その時はきれいな景色に涙が出ました。そして花メダルをもらうことが出来ました。その翌年には自分から申し込んで他チームさんで踊らさして頂きました。

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2016年の貰った花メダル

≪夢源風人に加入≫

大学入学のタイミングで関西に来ました。その際に高知で踊れるちゃんとしたチーム探しをしました。その中で『夢源風人』に出会いました。失礼ながらこの時まで全く知らないチームでした。ただ調べていく中でとても面白いチームに感じました。またちゃんと高知のことを大切に考えているチームでした。そして見学会に行ってみると楽しそうに踊る踊り子さんを目の前で見ることができました。その場で加入を決めました。

≪地方車の上へ≫

ぴとぅは班制度をしています。僕が所属しているMC班もその一つです。地方車大好きな僕にとって煽り・MCというポジションは長年の憧れの場所でした。そこに挑戦ができるチャンスがあるということでぴとぅに入って一年も経たないタイミングでMC班に入りました。
そして2019年第66回よさこい祭りで地方車に乗るという長年の夢を叶えることが出来ました。あの場所から見た景色は忘れがたいものがありました。

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2019年上町競演場で地方車に乗った時の写真

≪僕とよさこい≫

2020年はよさこい祭りは史上初めて中止となりました。ただ夏に高知に行かないには逆に気持ち悪かったので万全に対策をして静かな各会場巡りをしました。高知の町中を歩いて一切地方車に会えなかったのは分かってはいましたがとても寂しかったです。僕の人生においてとても重要で大きなピースになっている『よさこい』はこれから先もそして来世でも大切にしたいなと思います。

ぞえ6

2020年8月11日の菜園場商店街

最後にここまで読んでくださりありがとうございます。
もし次回があるなら今度は地方車だけにスポットをあてて書きたいなと感じました。今年は夏に高知で地方車に出会えることを願って終わりたいと思います。
ありがとうございました。

                            MC班 ぞえ

このWebサイトはぴとぅ広報班が管理しています。
12年くらい前の話

わたるんです。

では、簡単に自己紹介を、、、
・2008年10月にぴとぅのメンバーになる(8期がスタートした頃)

・12期までは踊り子として祭にも参加していた

・ぴとぅの公式サイトに関わっている

きっかけ

2008年4月、当時の職場でぴとぅのメンバーの人に出会いました。
それがきっかけとなり、今に至ります。

昼休みの食事中にほぼ毎日、よさこいの話をしてくる人がいました。ぴとうのメンバー(8期の副代表)の人でした。

半年くらいそんな日々が続いて、練習会の見学をさせてもらうことになり、
2008年10月のとある水曜日に大阪城公園に行きました。

見学するだけのつもりだったのですが、
鳴子を貸してもらって、振りを教えてもらうことに。

自分にできるのか心配であったものの、
その日のうちにメンバー登録しました。

高知よさこい祭りに向けて

その後の練習会はほぼ毎回参加して、
あと、イメージ・トレーニングをしたり。
メンバーになる前とは全然違う生活になりました。

練習の甲斐あって、高知のよさこい祭りにもなんとかいけました。

はりまや橋にて

広報の一員として

2年目からはぴとぅの公式サイトの管理にも関わります。
※当時は広報じゃなくてHP班という名称でした。

当時はほぼ何も知らない状態だったのでギャップを埋めるべく、入門書を数冊読み漁って、HTML, CSSを2ヶ月ほど、その後はPHPという言語を勉強。その後CMSというものを導入することになって、データベース(DB)の勉強。あとはGoogle Apps Scriptとか。その都度色々と吸収していきました。

最後に

これからもなんらかの形で関わっていくつもりです。