ぴとぅとの縁、つながり:佳奈美

さて、ちょっとした小説です。長くなります。
わたしのこと好きな人以外はもう読むのはやめたほうがよいかもしれません。「閉じる×」を押すなら今です。閉じるはあっち↗、読む人こっち↓

前章 ダンス授業


 始まりの場所は、中学校のダンス授業。二十何年前に遡ります。その時一緒に踊った友達と、高校に入ってダンス同好会を立ち上げました。あの頃は高校にダンス部があるところなんて周りにはなく(あの有名な日本高校ダンス部選手権も2008年から開催)、同好会を作ったはいいけどしばらくずっと女子4人で活動。授業中ずっと寝て、放課後は渡り廊下の窓を鏡がわりに踊り、職員室でアイスを食べる、そんな青春時代。ダンスを大人になってもするなんて思いはこれっぽっちもなく、コンテストに出るとかそんな話も一切なく、ただただひたすら踊ってしゃべってはしゃぐ毎日。それでも後輩は増え、3年の時には同好会から部に昇格。(現在は、校内で1・2を争うマンモス部になっているとか!Σ(・□・;))そして。
そのダンス部から、わたしにとって奇跡的な縁がつながります。


第1章-よさこいとの出会い-


 「一緒に夏祭りに出てくれませんか?」
ダンス部が地元のよさこいチームさんに誘われたのが、わたしのよさこい人生の始まりでした。二十数年前、大阪によさこいチームがまだ2チームくらいしかない頃のお話し。誘ってくださったのは地元のおばさま方のよさこいチームさん。はじめて鳴子を持ったのはピチピチの18歳。高校卒業してからそのお姉さま方のよさこいチームへ入会し、第1回こいや祭りでも踊りました。このころから年代の違う人たちと話すことが大好きでした。世界が広がりました。ダンスとよさこい、踊りたければどちらも選択できた転機の時に「よさこい」を選んだのは、ここかと思います。
世代の違う人とのつながり。

流星

はじめて振り付けもさせてもらいました。小学校の運動会の演目として踊ってくれるということで教えにいったりもしました。
 よさこい沼への1歩目は動画で見た2002年高知での「四国開発グループ」、そして北海道「三石なるこ会」。当時はVHS。擦り切れるほど見ました。生では見れなかった。というか、別世界のテレビの中のアイドルみたいなイメージで、見に行くということを考えもしなかった。そして、看護学校の実習地獄から抜け社会人となった2004年、知り合いもいない関西の合同チームに ひとりで乗り込み、高知のよさこい祭りに初参加、初花メダル。(後々、長い付き合いになる人たちがここにたくさんいました…) その時は「楽しかった!いっぱい踊れた!興奮!また来たいな。」って感じの感想のみだったかと思います。

第2章 夢源風人との出会い


 他のチームに所属している時期があったり、どこにも所属していないときもあったりしながら、「大阪でよさこいをしていると自然とたどり着く場所」という感覚で、夢源風人と出会いました。わたしが最初に感じた、この手を伸ばせばそこにある感覚は、今でも大事だなと思っています。はじめてよさこいに触れたいと思う人が手を伸ばせる距離にいたい。そんなチームでありたい。(話がズレました…)
 夢源風人ではじめて踊った作品は、夢源風人3期「2004思いの花火」。わたしが一番大切にしている曲。「あ、ここで踊ってみたいな」そう思った幸せへのきっかけの演舞曲。

写真1

結成からこの年まで、夢源風人の衣装と言えば「片袖」の衣装。2004年は小さな衣装替え(袖が長くなる)もあった演舞でした。
 そして、高知の衝撃に出会ったのは2005年の夏。よさこい祭りに夢源風人サポートスタッフとして参加しようと、8月10日の朝、一緒にスタッフをする友達と高知駅到着。はじめてで地理もわからず、とりあえず「はりまや橋」行きのバスに乗ってみました(今なら歩く)。どうやらそのバスに乗ったことで、わたしは高知から離れられなくなったようです。

第3章 高知の沼へ


ネットで「杉田佳奈美 よさこい」と検索すると、この文章にぶち当たることがあります。


夢源風人の2007年チームリーダーの杉田佳奈美さんに、なぜ?県外から高知に踊りに来る?をテーマによさこいを語っていただきました。素晴らしく熱いぜよ!  
~略~私が初めて高知よさこいに行ったとき、高知の方のあたたかさに触れました。たまたまバスで一緒になったよさこい好きのおじさんが一緒にご飯を食べようと言ってずっとよさこいの話しをしてくれました。そして食べ終わったらうちらの分もお金を払ってお祭りの街へ消えました。お土産屋さんでお店の人と話しをしていたら売り物の桃をもらいました。演舞中も、観客の方がうちわであおいでくれることに感動して自然と笑顔で踊っていたり、地方車から観客の人をビデオで撮っている自分がいたり・・・
踊っている途中にみかんをくれるおばあちゃんがいて、みかんを持ちながら踊ったり。笑。毎年無料で飲料提供してくれる高知の業者さんもいます☆街のあちこちにあたたかさがいっぱいなんです。だから私は高知を愛しているのかもしれませんね。
夢源風人の2007年チームリーダー杉田佳奈美 
(26歳の文章!!ちょっとなんか恥ずかしい!)


いま振り返るとあのバスで一緒になったおじさまが、はじめての土地で少し不安だったわたしのココロを一瞬で溶かし、高知の門を一緒に開いてくれたのだと思います。まさに高知家そのものでした。
 そして2006年5月7日(あきべーとたまたま同じ日)、夢源風人メンバー登録をしました。まだ入ってなかったんかい、笑
その頃まではね、日本全国あちらこちらのチームにお邪魔して、高校の時のような青春を走っていました。

写真2

札幌のチームにひとり飛び込みどまつりで踊ったり、早稲田大学で踊り侍さんに混じったり、東京農大や、ソーラン、雪まつり3daysにも行った。もちろんぴとぅでも時々踊っていた。ひたすら楽しい、楽しい、友達がたくさんたくさん増えた時。全国につながりがつくれた大事な時。こんな風に自由に飛び回ってたわたし。なぜ急に夢源風人の正規メンバーになったのか。
それは。2005年夢源風人高知スタッフとして中に入ったとき、一生懸命だった運営スタッフさん達を近くで見てしまったから。わたしに手伝えることがあるかもしれない、このチームに何かできることがしたい、そんな思いがその頃から溢れだしました。

第4章 魂がつかまれた瞬間。


そうして、夢源風人のメンバーとして迎えた2006年夏の高知。9日前夜祭。
観客席の後ろの後ろのうしろーーーの方で背伸びをしながら頭と頭の間から、ステージを見ていました。その瞬間。
「ある演舞を見た瞬間」わたしは深い深いよさこい沼へ魂ごと落ちました。
光の中に。一人きり。こどもに戻って、何も他には見えず。演舞だけしかそこにはない。そんな感覚。――――終わったら、涙があふれていた。
(わたしこの感覚、まるまんてんの歌詞に勝手にリンクされるの。~略~強く強く心よさけべ この道の先はまだ 愛をさけべ この夏の夜に 指折り願い 舞い上がる光―)
あの時の演舞が、ずっと先に出逢う千賀先生の振り付けだったと知るのは、その10年くらい後のこと。


第5章 夢源風人との縁「 花の虹 」


 2006年10月、夢源風人6期代表になりました。メンバーになって5ヶ月での代表就任。今では絶対に考えられない期間(その時代でも異例ではありましたが)。代表決定は承認制。最初に全員に送った立候補メールはもう手元に残っていませんがなんとなく覚えています。まだ若造で。大切なものが見えきれてないけど。思いだけはおもいっきり入れ込んだ。そんな文章だった記憶です。当時わたしは25歳。今ぴとぅの中核で動いているメンバーがたくさん初スタッフとして動いてくれた年。スタッフ陣の平均年齢が一番若かった年なのではないかな。全国のチームさんに声をかけて、ぴとぅ花見交流会を初開催しました。(初期は源人花見と言って、夢道源人さんとの花見はしていたそうよ☆)開催に向けての準備で、いろんなスタッフさんとたくさんお話しをしました。お花見当日より準備期間の方が濃い時間だったことを今でも覚えています。MC班をはじめて作った年でもあります。素敵な思い出。
 「花の虹」踊り子それぞれの花が咲き、みんながつながって虹になる。
チーム運営も、演舞も、そんな世界を作ることを夢とし走った1年でした。


第6章 19期20期代表へ

 6期代表以降、事務局・衣装担当・広報担当・振り担当など各年いろんなことをしておりました。スタッフでない年もありました。
代表は、もうするつもりはありませんでした。ネガティブな意味ではなく、わたしが引っ張る時は終わった!と思っていたから。
それが13年経った今、代表。どうして?
答えは・・・よく分かりません。
次だれが代表する??となって過去代表が集まったのが18期の梅雨時期でした。代表と決まる10分前まで、まったくする予定はなかったのだけど、「あれ?流れがこっちにきたな…あ、わたしやるべきときなのか」って思ったら、代表になりました。そう思った理由を自分の中に探すとしたら、
「ぴとぅを無くす選択肢は、わたしの中にはなかった。」これだけだと思います。立候補者がいなかったら夢源風人は解散というスタイルで19年間つないできました。だから。
やる予定はなかったのに、迷う時間なく就任。という不思議感覚。決まったときは19期20期2年代表すると宣言しました。なぜかコロナさんのことがあって3年になりました(*’ω’*)アレ?笑

そして。
幸せなことに、たくさんの人に支えられ、今があります。
今回、コロナさんのことがあってたくさん考えることがありました。一番大事なところが丸裸にされて見えてきた期間でもあったなぁ。いろんな話をしても、最終結論はいつもここでした。「みんなに会いたい」
すべてが無くなっても、「心だけはつながっていたい。」
 夢源風人のメンバーは、踊り子さんもスタッフさんも一晩かけて話すことができるくらい、人として素敵です。一生懸命で、思いがあふれていて、ちゃんとつながっている。ぴとぅの演舞で素敵なところは「踊っているメンバーが、演舞でお客さんとお話しができること」。
夢源風人のまわりにいてくれる方々も素敵。お祭りにいっても、どこにいっても、笑顔があふれる。そんな世界に存在できることは幸せでしかない。
本当に大切なもの。この幸せがどんどんつながっていくことを願って、みんながいつでも帰ってこれる場所であることを想って。
最終章を書くことはきっと、ないでしょう。
いつも。
ありがとう。


―あとがき―


 わたしが今これを書いているのはどうしてなのか。普段のように活動できなくなった中で、何に気づいたのか・・・。
SNSを見ていても、お友達とお話ししていても、各地のお祭りや、チームさん、みんなが、これまでしてきた活動の意味を、今、見つめていると感じます。毎年変わらずあると思い進めてきた活動の中で、どこか意味が薄れ、楽しさが勝ったり、作業になったり、違うところが大きく見えていたところもあるのかもしれません。
最初に大事にしてきたことは何か。本当に大事にしたいことは何なのか。今年しかない学生チームさんは、様々な思いが交錯する中、今年なんらかの形でやり遂げるために、引退を迎えるために今もたくさんもがいています。
それぞれの1年。いままでにない1年。この1日が。ひとつずつきっと未来につながっている。起こることすべてにきっと意味がある。
 縁、つながり。
これはわたしにとって、わたしの思いを形作るすべてなんだろうと今は思っています。

ふるいひと
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