Archive: 7月, 2020

『ただいま』って戻れるあったかい場所☆つもりん

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MCの団扇持ってる写真

よさこいとの出逢いを綴るって、超ハードな作業。。。
私のコトバに興味がある人なんて少ないとは思いますが、ココロを込めて綴ります。
長くなりそうなんで、どうぞゆっくり時間がある時にお付き合いください。


-中之島まつりとの出逢い-

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第26回中之島まつりポスター

私がよさこいに出逢ったキッカケを語るにはやっぱりここからだな、と思います。
現在39歳、2人の子持ちの関西のおばちゃん全開の私ですが、そんな私にも女子高生という可愛らしい時はありました。
芸能文化科という上方芸能を学ぶという特殊な高校に通い、体重75キロという巨漢の割に楽しい学生ライフでした。
授業の一貫である落語家さんたちのお祭り(毎年9月開催の彦八まつり)にお手伝いに行き、そこで中之島まつりの実行委員会さんと出逢います。
当時は演劇とダンスに没頭してた私。
『中之島まつりのステージやらしたるから一緒に祭り作ろう』
とのお誘いにほいほいくっついていきましたwww
そうして初めてお祭りの運営に携わったのが、1996年、15歳秋のこと。
中之島まつりでは、たくさんの経験をさせてもらいました。
子供ステージのステージ長に始まり、メインステージのステージ長、飲食ブースの店長、そしてお祭り全体の事務局長。
当時は中之島まつりが私のすべてでした。
そんな生活の中、新たな出逢いが訪れました。

-こいや祭りとの出逢い-

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第1回こいや祭りガイドブック

中之島まつりの事務所がほぼ自宅化してた私。
ある日、めちゃくちゃ美人の大学生がやってきました。
はい。第1回こいや祭り実行委員長の野澤さんです。
なにやら、大学生が実行委員となって、大阪で踊りのお祭りをしたいらしい。。。
『応援しよー!』って訳で、私の自宅化していた事務所は、急に美男美女大学生が毎日真剣に話し合う事務所となりました。
当時まだ18歳?だった私は、どう考えても自分より大人びてる同世代の人たちに圧倒されっぱなしでした。
そして、迎えた第1回こいや祭り。
私はブースからステージを見てました。
もともとダンスをやってたこともあり、ウズウズしっぱなし!笑
とにもかくにも無事に第1回こいや祭りが終わり、さぁ、次は自分たちの祭りに没頭!と日常に戻ったのです。
しかし、私と同じようにウズウズしてた人が他にもいました。
私と同級生のお父さん。。。
《もりしげさん》です。

-よさこい踊りとの出逢い-

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こいや祭り実行委員としてよさこい普及活動

ある日、急に《もりしげさん》に『つもり、踊るん好きやろ?城公園行こうや』と誘われました。
よくわからないままついていくと、そこにいたのは《ひめ》と呼ばれる綺麗だけどサバサバしてて少し怖いwww方。
挨拶もそこそこに、急に振り落としが始まりました。
【こいやの舞】ともう1曲(諸事情により曲名は出せません)でした。
なんと数時間でまるまる2曲の振り落としを受けました。
で、、、、
はい。ハマりましたwww
もっともっと踊りたい!踊り子のみんなと仲良くなりたい!
そんな思いが溢れました。
が!
私は祭りを作る側の人間だ!という変なプライドが邪魔をし、メンバーにならず、中之島まつりやこいや祭りの実行委員をメインに活動していました。。。

-夢源風人との出逢い-

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カウントダウンイベントでこいや祭り実行委員と

ぴとぅとの出逢いの章なんですが、、、実はあまり覚えてないんです。。。
いつの間にか振り落としを受けていました。確か、何かのイベントにだけ、スポット参加することになったのがキッカケだと思います。
だから、最初に振り落としを受けたのは総踊りの【花祭り】でした。
そんなに練習にも参加できなかった私にもみんなすごく温かかった。
なんだか青春だった。
そんな空気感だけが鮮明に残っています。
財政難なチームの為に、フリマを開こう!とみんなで商品を持ち寄ってフリマに出品したり、こんなチームにしたい!とか、よさこいの魅力とか、私の知らない世界を聞かせてもらいました。
《ほりちゃん》《あかちゃん》と気軽に呼んでた気もするけど、当時は本当に気楽に参加してました。何も役には立てなかったけど、裏方として思い付くことは言ってた気もします。
活動に行ったり行かなかったり、、、当たり障りのない、居ても居なくても同じな活動をしてました。
そんな私がぴとぅにどっぷり浸かったのは2005。
同じ中之島まつり実行委員だった《まるさん》が代表をするとのことで、誘ってもらって、真剣に練習しました。
振りは、これまた中之島でご一緒の《みっつん》。
この年は頑張って練習に行きました。
初めて衣装も買いました。
だけど、高知のよさこい祭りには興味がなく←今考えるともったいない。『あんなに暑いところで踊るなんて信じられへん!』の殻から抜け出せず、衣装を着て踊ったのは寒い冬の季節のみwww

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EXPOまつりんぐ

両肩が出てる衣装はかなり寒かった!
あ、この2005に《はなちゃん》がぴとぅにやってきました。
今とほとんど変わらない、超超可愛くて踊りも上手でストイックで、はなちゃんと初めて会った日は今でも鮮明に覚えています。
その後2006は廃人になり、2007にたった1回だけ復帰しました。
明石やったかな、、、?
振りもままならない状態で、産んだばかりのりょうやを連れて参加し、見事に気持ちが敗北。。。
そこからは子育てに追われる日々となりました。

-再会。そして、ただいま-

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雨の神戸よさこい

りょうやが幼稚園の時にとあるキッカケで、またよさこいとご縁することとなりました。
【よさこいチーム天舞音】です。
地域の小さいお祭りに参加してる小さいチームかと思っていたらビックリ!
いろんなお祭りに参加してて、私は久々に夢源風人の演舞を観ることになりました。
数年振りに見たぴとぅはすごいことになってました。

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こいやプレでのかなみとここちゃん

コトバでは表現しにくいけど、笑顔溢れてる数がめっちゃ増えてて、洗練された演舞で、キラキラしてました。
久々過ぎて声もかけにくかったけど、ある年のこいや祭りで、ぴとぅのブースに行って、『久しぶり!』と勇気の一言。
すると、私の心配はどこへやら、普通に話してくれる仲間がそこにはいました。
りょうやが4年生になる年、私は決意。
私もぴとぅで踊りたい。仲間になりたい。
そこで、《かなみ》に『子供らいてるし、高知には行けないけど、私、復帰しても良いかなぁ?』と連絡しました。
みゆかを産んだ後もずっとずっとぴとぅに居るかなみだけが頼りでした。
お返事は『OK!』
(ノ´∀`*)
メンバーに新曲【あふさかんシンフォニー】御披露目となったクリスマス忘年会より、復帰となりました。
心機一転、私は本名で《かつまま》と登録したのですが、
そこには《かなみ》《はなちゃん》《みっつん》《ポッター》《あきべ(名前だけ知ってた)》《たいが(ぴとぅではないところで知ってた)》などなどが私を《つもり》と呼ぶので、あきらめて登録名は《つもり》を通すこととなりました。

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あふさかんシンフォニー

-夢が叶った-

あふさかんシンフォニーは家族で私だけが参加。まだまだ小さい子どもたちを連れて練習に行くことは叶わず、始めに開催された振り落とし合宿だけが頼り。子どもたちを退屈させないように工夫しながら皆さんにも協力してもらいながらのスタート。
ほとんど練習に行けずでしたが、かえる祭りや神戸よさこいなどに参加しました。
日頃の練習には1人で参加してましたが、イベントには子どもたちを連れてました。
そして、大阪大会。
大賞は逃しましたが、ぴとぅは金賞でした。
それを見たりょうやが『ぼく、来年ぴとぅ入ろうかな』と!
嬉しかった。本当に嬉しかった。
みんなの笑顔、温かさ、その全てが4年生のりょうやにも届いたんだ!と実感しました。

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初めての高知のよさこい祭り

りょうやと私の親子ぴとぅ初演舞は
【ハレ、晴れ】
そして、家族みんなで、初めての高知のよさこい祭りに参加しました。
まさに、ハレ舞台でした!
その後は皆様ご存知のように、りょうやにとってよさこいとの出逢いは人生の大切な宝となっています。

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りょうや、ハレ晴れ

-もう1つの夢-

りょうやと私がぴとぅに明け暮れる毎日。当時まだ年中さんだった妹のここちゃんにとってもぴとぅの時間が楽しくなるように色々と工夫をしていました。
ここちゃんは、先ほど出てきた地元のよさこいチーム【天舞音】に所属しています。
ここちゃんの口癖は『私は天舞音が忙しいからぴとぅは無理!』ですwww

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よさこいチーム天舞音

そんなここちゃんが、2019年(ここちゃん1年生)の高知で帯筋のみんなの演舞を見ながら『20周年はここちゃんもぴとぅで踊るで!』とあらためて真剣に言ってきたのです。
まさかの、家族3人で!嬉しすぎです。

本当なら、来年が家族デビューでしたが、1年延期。
悔しくも、りょうやの高校受験と重なり、みんなと一緒のスタートは難しいですが、身体を壊しまくっている私にとっては最善の体調で参加できるように調整する時間が増えました。
りょうやも4月からスタートでもみんなと高知に行く!受験時期は仕方ない!と腹をくくっています(>_<)

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家族でよさこいカウントダウン

-私にとっての夢源風人-

ぴとぅは、あったかいです。
ぴとぅは、やさしいです。
ぴとぅは、げんきです。
ぴとぅは、じゆうです。
ぴとぅに出逢って人生は変わりました。
ぴとぅに出逢って人を想う事を知りました。
ぴとぅに出逢って自分に優しくすることを知りました。
昨年の高知で、ホテルのテレビを通してみんなを見た時、ココロから、
【みんなの笑顔が私の郷です】と思いました。
たくさんのありがとうと
たくさんのかんどうと
たくさんのえがおがある
そんなチームに一緒に居れることが
本当に幸せです。

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みんなからのお手紙

虎日記

 徒然なるままに、自粛生活、パソコンに向かいて、心にうつりゆくぴとぅのことをそこはかとなく書きつくれば、何か伝えられるものがあるというものだ。
 なので、事務局が書くと聞くnoteというものを、人見知りの私もしてみようと思って書くのである。夢源風人に出会ったある年の5月を書きはじめとする。そのぴとぅとの次第をほんの少し物に書きつける。

 何か意味のあることを書こうと思えば思うほど、硬い文章になって、面白くなくなってしまう。興ざめ。なので、構成も文体も整えないまま垂れ流します。まもなく約15年前にタイムスリップいたしまーすっ☆
 心の準備は出来ているかい?

さぁ!私と一緒に時空の旅に出たい方は、このままスクロール☆
現実世界に帰りたい方は、戻ってね、バイバーイ!

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時空をつかさどる、よさこいの妖精とリアルおとど(知らんけど)

夢源風人との出会いの前のプロローグ

 何から話せばよいかと思案しまして、まずは夢源風人に出会う前の背景をほんの少し。
 私がチームに出会う少し前のに、母が「こいや祭り」というものにハマり、妹もハマり、、、我が家の会話が「よさこい」に浸食されていっておりました。
 また、2005年のよさこい祭りに、当時小学5年生の妹「まつりちゃん」が夢源風人から参加することになっていましたので、チームの存在と「夢」「源」「風」「人」と書いて、「むげんかじぴとぅー」と読むのだなぁということは知っていました。ただ、そんなに興味はありませんでした。
 その頃の私は、母のお願い(命令?)により、地域の子どもたちに南中ソーランやくるくる丼を教えておりました。地元の盆踊りで子どもたちが披露するために一生懸命頑張ってる子どもたちは可愛かったですね。
 子どもたちのことは好きだったので、それほど苦ではなかったのですが、私は踊りたいわけでもなく、、、また母や妹に関わる若い人たちが基本的にテンションの高い人たちだったので、「よさこい」はあまり好きではありませんでした。




何この前置き(・_・)

2005年

夢源風人との出会いは2005年の中之島祭り

 今、みんなと練習している剣先公園がきれいに生まれ変わる前。
そこに作られたステージで、男女とも右肩を出してた紺色の衣装(2004、想いの花火)を着た大人の人たちの演舞。
 それまで、地域の子どもたちが盆踊りとかで踊りを披露するために、教えていた踊りとは全く違う、鳴子を持って笑顔で楽しそうに踊る、「大人」に驚き桃の木20世紀でした。驚きももの木20世紀 – Wikipediaja.wikipedia.org

2006年

こいや練の定位置は、みんなと触れ合わない「隅っこぐらし」 

 夢源風人というチームに出会った一年後、5月の上旬にチームに加入しました。(一年間、何しててん!って突っ込みは無しで。記憶にないから。多分、色々あったんだと思う。きっと。)
 私がチームに加入したころは、まだ月謝制だったと思うけど、記憶力が基本的にニワトリなので、、、だれか補足をお願いします。
 加入当時のぴとぅメンバー30名ほど。練習会には20名来たら多い方っ!というようなチームでした。(今じゃ考えられないでしょ?)練習場所は、水曜日の大阪城公園、金曜日の春日出中学校と今と一緒でした。
 その頃の記憶を頭の中の引き出しを探してみると、必ず先に見つけてしまうものがあります。それが「こいや練」こいや祭り公式サイト大阪の夏を彩るこいや祭りへ!www.koiya.net

 その頃は活発に行われていた「こいや練」(毎週火曜日19時~21時、大阪城公園の噴水前に集合な!!って感じ)
 私よりも前に、よさこいに浸かっていた母と妹に連れられて、私も毎週火曜に大阪城公園に赴いていました(嫌だった)
 チームの中でも言葉を発しないのに、若さウキウキの人たちと話せるわけないでしょう?だから、私はみんなの輪から離れたところで時が過ぎるのを待ってました。(すげぇ変なやつ)
 そんなやつでも同世代の人は絡んでくれたんです。人との関わりが嫌いだったけど、その時間は楽しかった。その人たちには本当に感謝。2号くん、やまと、辰村、たむたむ。
 毎年高知でスタッフをしてくれている2号くんとは、その頃からの付き合いなんです。(私、甘えきってる。何でも受け入れてくれるから)
 ちなみに彼と「湯豆腐を食べにいこうね☆」という約束は14年経った今でも果たされていません(・_・)

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2号(若かりし頃)、たいが(痩せてた頃)、さとし(今とほぼ一緒)

同時加入はハルくん。

 さて、「こいや練」に話を持っていかれましたが、ちょっと戻ります。上にも書きましたが、私は2006年5月の1週目の金曜日に夢源風人に加入いたしました。その当時を知る人は練習以外は話をせずに小説ばかりを読んでる文学少年と思っていたと思います(違う)
 同日加入がもう一人いました。みんなご存じ、ハルくん。(めっちゃイケメン)
 元々は勝山組(あきべーくんの同期)で、学校の関係で大阪に戻ってきたので、大阪のよさこいチームを探してたみたいです。1.2ヶ月、チームの体験をしていて、やっと加入したという優柔不断さも彼の魅力☆今は「よさこい塾・ありがた屋」のメンバーです。
 彼とは2007年に「中央スタッフ※」として一緒に頑張ることになるのです。
 ※中央スタッフ:練習会やイベント等を企画運営するスタッフで、花・ハル・たいがの3人で頑張っていました。たいが初めてスタッフをするの巻。
 かなあみ代表(2007年当時)が新たに設置したスタッフでした。1年間、楽しいも悔しいも経験して過ごせたことが今の私を作ってくれているんだろうなと常々思っています。
 余談の中の余談ですが、人見知りなのに、自己肯定感は人一倍高かったので、何もわからず「何かしたいです」と代表に直訴したのもエモエモのエモですね。(エモい)
 また、話が変わりましたね。伝説の中央スタッフについては、2007年の章で触れたいと思います。

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顔がいい。(無許可)

練習会には、まじめに通っていたけど、言葉を発することは、ほぼない。

 晴れて、夢源風人メンバーになったわけですけども、当然、上記のように人と話すことがありませんでしたので、当時の記憶はあまりない。(・_・)だって、ニワトリだもの。とらを
 ですが、当時の振り班の「みっつん」「おおにょさん」「くまっきー」「はな」「はんな」の皆様をいっぱいお声かけをしてくださったのを覚えておりますが、、、あまり話しませんでした。(ごめんね、青春☆)
 それでも、自分より大人な人たちに囲まれるのは、ちょっと地元のような感覚があり、居心地は良かったんです。(当時の方々、皆様にお伝えしたい。)だから今まで続いてるんです。
 居心地が良かったので、練習は皆勤賞かつ19時前には練習場所に到着しているような優等生。ストレッチも黙々とこなし、練習も黙々とし、休憩も黙々と取っていました。そして黙々と帰ってました。(黙々黙々、、、ゲシュタルト崩壊?)
 その成果が動画に残っているみたいです。運動神経だけで踊っていたので、当時の振りを振り返るのはとても恥ずかしい。ですが、よろしければ観てください。(画角と画質が時代を感じさせますね。)

 また当時の夢源風人は総踊りを積極的に踊っておりまして、「しげじぃ」(notなかじぃ)という方の「ぶんだら節」が好きでした(今はもう振りはおろか、曲すらも出てこない)

最初は、コミュニケーションおばけのあきべーくんが「苦手」だった。

 今の夢源風人の中で先輩は4名います。みっつん(今と変わってない。職業チャラ男ではなかった。)、ぶんちゃん(今と変わってない。お酒は弱くなったと関係者談)、なかじぃ(今と変わってない。本当に変わってない。)、はな(当時身長123cm、本人談)。この4名には頭上がりません。
 ※つもりさんは、僕が入る前に抜けてるので、、、
 そして、一番近い後輩は、あきべーとかなあみです。
 ふふふ、私の方が加入したのは先輩なの。知らなかったでしょ?(その頃、既にチーム外では有名人さんでしたが、話さなかったので、そんなことは分かりませんでしたw)
あきべーくん。
 彼ね、すごい話しかけてくるの。後、距離感の詰め方が”剣道”。なんかバッ!!って詰めてくる。わかるでしょ?
 「何?この人類。。。めっちゃ顔近いやん」って印象しかなかった。「しかも、めっちゃ、やんやん言うてるやん。。。」って感じ。
 彼と話すようになったのは、2006年のよさこい祭りが終わってから。
 仲良くなれると思ったら、距離の詰め方は、私が”剣道”。相手は困惑。(なんか、いろんな人、ごめんね。)
 今では、仲良し。出会った頃は人の家でお互いパンツ一丁で、一つの布団で寝ることになるとは思わなかったよね。

正真正銘の柴田彰洋くんです。

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今はこんなにも仲良し☆

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数年後の「あきべー」と「ハル君」(もちろん無許可)

すべてを変えた2006年よさこい祭りの前夜祭。十人十彩の衝撃

 さぁ、ちょっとここで、よさこいの話しでもしましょうか。
 あの頃の私にとっての「よさこい」は夢源風人が全てでした。三國無双から着想を得た振りもキムタクをイメージした衣装も、航海に向かう楽曲も手作りの地方車も、代表1人副代表2人の三人で天を目指す「夢奏人(かなで)」というテーマも「これが俺らのよさこいやぁ!!」って気持ちでいました。あ、もちろん、自分たちが一番だって、心の中ではいつも思ってるよ!New video by ぴとぅめもりーphotos.app.goo.gl

動画があったっ!地方車も昔の規定だから、お顔がある!

 そんなこんなで初めてのよさこい祭り。行きのバスの中で、初対面の方多数の中で自己紹介をするという地獄を味わいながらもたどり着いた高知。その後、14年も続けていくことになるとも知らずに。

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行きのバス内、とてもワクワクしてそうな顔(・_・)

 以前はホテルに着く前に、前入り班が組み立ててくれた地方車を見に行って、地方車から大音量で流れる曲で踊って、気持ちを高めるというようなことをしてたんです。
 そしてホテルに着いて、どうしようかなぁと思っていると同室の子(練習で何度か話したことのある「たけなみくん」)が「たいが、前夜祭行くで!」と声をかけてくれたので、付いて行くことにしました。(私、従順)
 そして訳も分からず、ロスインから中央公園まで徒歩で向かいました。今と昔で何が変わったかなと思い返すと、2006年は高知駅会場がなく、高知駅も新駅舎になるまでだったかなぁ。。。
 なんやかんや10分~15分くらい歩いてたどり着いた中央公園。既にすごい人数の観客がいて、それはそれで圧倒された。(聞いてないやん、よさこい祭りがそんなに大きいお祭りだなんて。だって、大阪ではそんなに観客集まらないし。)
 審査員席の下で三脚を構えていたオジさんの横を陣取り、ドキドキしていると♪ダンダンダダンッ!ダンダンダダンッ!!と、始まったチームの演舞。

 十人十彩2006は、その当時持っていた私の「よさこい」の概念をいとも簡単に崩しました。
 音の迫力、洗練された衣装、振りの完成度、隊列美、そのすべてがかっこよくて、凄かった。どれくらい凄かったかというと、凄かった以外の語彙が消し飛ぶくらい凄かった。
 上の動画は何回も観たし、携帯の着メロを十人十彩2006にしてたくらい大好き。
 私は未だ、この演舞を越えるモノに出会えていない。もちろん演舞の質とかクオリティ、創造性とか考えると、今のよさこいの方が進化していると思う。進化していなければならないとも思う。ただ、その時の知識、気持ちや経験との相互作用から考えると、十人十彩の2006を越える作品はない。
 この年の十人十彩は前夜祭グランプリ、よさこい大賞の2冠に輝きました。やっぱり、凄いっっっ!

 そして、この時のたいがくんに教えてあげたい。
「あなたは何年後かに十人十彩2006の振付師、田村千賀に出会えるよ。」と。
 出会ってから何年かすると、毎朝LINEで朝の田村千賀動画が送られてくることになるよ、、、と。(snowで、超絶カワイイ先生が毎朝拝めるよ☆)

心が爆発した1日目の夜の追手筋

 前夜祭の衝撃をそのままに、始まった夢源風人2006でのよさこい祭り。

こんなに暑いなんて聞いてない!
こんなに踊るなんて聞いてない!!
こんなに楽しいなんて聞いてない!!!

 人見知りひきこもり少年の感情は揺さぶられまくってた。

 当時体験したこと、思ったこと。(一部抜粋)

お客さん、めっちゃ団扇で仰いでくれるやん。
待って、唐揚げとビールを差し出してくれるけど、踊ってる途中やで??
隣の人と目を合わせて踊るの楽しいっ!
きゅうりで乾杯って何?そんで味噌つけるのは意味わからん。
個人賞って何?めっちゃ嬉しいですけどーーーー!!!
何でバスが通るん?
終わりたくない、終わりたくない、終わりたくない、、、

 ヒトはカルチャーショックに出会い続けると、壊れます。(経験談)

 感情の波にさらわれ、高知の温もりに酔わされ、土佐の夏に踊らされ、、、気づけば、夜の追手筋の待機。向こう側で待機している別チームと一緒に気持ちを盛り上げ、スタッフの方のgoサインとともに、光に照らされた会場へ走り出す。高ぶる感情とは裏腹に、「終わりたくない、終わりたくない、終わりたくない、、、」という切なさがこみ上げる。まだ明日があると分かっているのに止まらない。

 多分、それまでの私とは違う私がそこには居た。あふれ出る感情に心は爆発してた。隊列が横だった「ちゃむさん」に泣きながら、笑いながら、感情をぶつけるように踊ってた。
 その光景はニワトリの私でもすごく鮮明に覚えてる。きっと、あの時、私の「よさこい人生」は動き出したんだと思う。

夢源風人に出会えて良かった。

「よさこい」がそんなに好きではなかった私を受け入れてくれたチーム。
いつまでたってもほとんど話さないのに、声をかけてくれたメンバー。
一人にならないように気にかけてくれた、スタッフ。

 2006年の高知で感じたのは、「目には見えない思いのつながり」でした。
 私の大好きな言葉です。

あとがき

 まだ続くんかぃ!って思ったあなた。
 同じことを私も思っています、奇遇ですね。取り留めもまとまりもないことをよくこんなにつらつらつらつらと書けるものですね(・_・)
 これ、最初はですね。2012年くらいまでを書こうと思ってたんですよね。でも、タイトルとか考えてるうちに、2012年が減り、2011年が減り、、2008年も2007年もDelete。2006年一年分しか書ききれませんでした。
 2006年以降を書くかは、ここまで読んでくださった皆様の反応次第です☆

最後に、、、
今年のよさこい祭りはないけれど、来年の高知の空はきっと青空です。
必ず、心が爆発するような空間と時間があなたを待っています。そう、2006年の私のように。

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2006年の私(全く何もどこも変わってないですねぇ)

ぴとぅとの縁、つながり:佳奈美

さて、ちょっとした小説です。長くなります。
わたしのこと好きな人以外はもう読むのはやめたほうがよいかもしれません。「閉じる×」を押すなら今です。閉じるはあっち↗、読む人こっち↓

前章 ダンス授業


 始まりの場所は、中学校のダンス授業。二十何年前に遡ります。その時一緒に踊った友達と、高校に入ってダンス同好会を立ち上げました。あの頃は高校にダンス部があるところなんて周りにはなく(あの有名な日本高校ダンス部選手権も2008年から開催)、同好会を作ったはいいけどしばらくずっと女子4人で活動。授業中ずっと寝て、放課後は渡り廊下の窓を鏡がわりに踊り、職員室でアイスを食べる、そんな青春時代。ダンスを大人になってもするなんて思いはこれっぽっちもなく、コンテストに出るとかそんな話も一切なく、ただただひたすら踊ってしゃべってはしゃぐ毎日。それでも後輩は増え、3年の時には同好会から部に昇格。(現在は、校内で1・2を争うマンモス部になっているとか!Σ(・□・;))そして。
そのダンス部から、わたしにとって奇跡的な縁がつながります。


第1章-よさこいとの出会い-


 「一緒に夏祭りに出てくれませんか?」
ダンス部が地元のよさこいチームさんに誘われたのが、わたしのよさこい人生の始まりでした。二十数年前、大阪によさこいチームがまだ2チームくらいしかない頃のお話し。誘ってくださったのは地元のおばさま方のよさこいチームさん。はじめて鳴子を持ったのはピチピチの18歳。高校卒業してからそのお姉さま方のよさこいチームへ入会し、第1回こいや祭りでも踊りました。このころから年代の違う人たちと話すことが大好きでした。世界が広がりました。ダンスとよさこい、踊りたければどちらも選択できた転機の時に「よさこい」を選んだのは、ここかと思います。
世代の違う人とのつながり。

流星

はじめて振り付けもさせてもらいました。小学校の運動会の演目として踊ってくれるということで教えにいったりもしました。
 よさこい沼への1歩目は動画で見た2002年高知での「四国開発グループ」、そして北海道「三石なるこ会」。当時はVHS。擦り切れるほど見ました。生では見れなかった。というか、別世界のテレビの中のアイドルみたいなイメージで、見に行くということを考えもしなかった。そして、看護学校の実習地獄から抜け社会人となった2004年、知り合いもいない関西の合同チームに ひとりで乗り込み、高知のよさこい祭りに初参加、初花メダル。(後々、長い付き合いになる人たちがここにたくさんいました…) その時は「楽しかった!いっぱい踊れた!興奮!また来たいな。」って感じの感想のみだったかと思います。

第2章 夢源風人との出会い


 他のチームに所属している時期があったり、どこにも所属していないときもあったりしながら、「大阪でよさこいをしていると自然とたどり着く場所」という感覚で、夢源風人と出会いました。わたしが最初に感じた、この手を伸ばせばそこにある感覚は、今でも大事だなと思っています。はじめてよさこいに触れたいと思う人が手を伸ばせる距離にいたい。そんなチームでありたい。(話がズレました…)
 夢源風人ではじめて踊った作品は、夢源風人3期「2004思いの花火」。わたしが一番大切にしている曲。「あ、ここで踊ってみたいな」そう思った幸せへのきっかけの演舞曲。

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結成からこの年まで、夢源風人の衣装と言えば「片袖」の衣装。2004年は小さな衣装替え(袖が長くなる)もあった演舞でした。
 そして、高知の衝撃に出会ったのは2005年の夏。よさこい祭りに夢源風人サポートスタッフとして参加しようと、8月10日の朝、一緒にスタッフをする友達と高知駅到着。はじめてで地理もわからず、とりあえず「はりまや橋」行きのバスに乗ってみました(今なら歩く)。どうやらそのバスに乗ったことで、わたしは高知から離れられなくなったようです。

第3章 高知の沼へ


ネットで「杉田佳奈美 よさこい」と検索すると、この文章にぶち当たることがあります。


夢源風人の2007年チームリーダーの杉田佳奈美さんに、なぜ?県外から高知に踊りに来る?をテーマによさこいを語っていただきました。素晴らしく熱いぜよ!  
~略~私が初めて高知よさこいに行ったとき、高知の方のあたたかさに触れました。たまたまバスで一緒になったよさこい好きのおじさんが一緒にご飯を食べようと言ってずっとよさこいの話しをしてくれました。そして食べ終わったらうちらの分もお金を払ってお祭りの街へ消えました。お土産屋さんでお店の人と話しをしていたら売り物の桃をもらいました。演舞中も、観客の方がうちわであおいでくれることに感動して自然と笑顔で踊っていたり、地方車から観客の人をビデオで撮っている自分がいたり・・・
踊っている途中にみかんをくれるおばあちゃんがいて、みかんを持ちながら踊ったり。笑。毎年無料で飲料提供してくれる高知の業者さんもいます☆街のあちこちにあたたかさがいっぱいなんです。だから私は高知を愛しているのかもしれませんね。
夢源風人の2007年チームリーダー杉田佳奈美 
(26歳の文章!!ちょっとなんか恥ずかしい!)


いま振り返るとあのバスで一緒になったおじさまが、はじめての土地で少し不安だったわたしのココロを一瞬で溶かし、高知の門を一緒に開いてくれたのだと思います。まさに高知家そのものでした。
 そして2006年5月7日(あきべーとたまたま同じ日)、夢源風人メンバー登録をしました。まだ入ってなかったんかい、笑
その頃まではね、日本全国あちらこちらのチームにお邪魔して、高校の時のような青春を走っていました。

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札幌のチームにひとり飛び込みどまつりで踊ったり、早稲田大学で踊り侍さんに混じったり、東京農大や、ソーラン、雪まつり3daysにも行った。もちろんぴとぅでも時々踊っていた。ひたすら楽しい、楽しい、友達がたくさんたくさん増えた時。全国につながりがつくれた大事な時。こんな風に自由に飛び回ってたわたし。なぜ急に夢源風人の正規メンバーになったのか。
それは。2005年夢源風人高知スタッフとして中に入ったとき、一生懸命だった運営スタッフさん達を近くで見てしまったから。わたしに手伝えることがあるかもしれない、このチームに何かできることがしたい、そんな思いがその頃から溢れだしました。

第4章 魂がつかまれた瞬間。


そうして、夢源風人のメンバーとして迎えた2006年夏の高知。9日前夜祭。
観客席の後ろの後ろのうしろーーーの方で背伸びをしながら頭と頭の間から、ステージを見ていました。その瞬間。
「ある演舞を見た瞬間」わたしは深い深いよさこい沼へ魂ごと落ちました。
光の中に。一人きり。こどもに戻って、何も他には見えず。演舞だけしかそこにはない。そんな感覚。――――終わったら、涙があふれていた。
(わたしこの感覚、まるまんてんの歌詞に勝手にリンクされるの。~略~強く強く心よさけべ この道の先はまだ 愛をさけべ この夏の夜に 指折り願い 舞い上がる光―)
あの時の演舞が、ずっと先に出逢う千賀先生の振り付けだったと知るのは、その10年くらい後のこと。


第5章 夢源風人との縁「 花の虹 」


 2006年10月、夢源風人6期代表になりました。メンバーになって5ヶ月での代表就任。今では絶対に考えられない期間(その時代でも異例ではありましたが)。代表決定は承認制。最初に全員に送った立候補メールはもう手元に残っていませんがなんとなく覚えています。まだ若造で。大切なものが見えきれてないけど。思いだけはおもいっきり入れ込んだ。そんな文章だった記憶です。当時わたしは25歳。今ぴとぅの中核で動いているメンバーがたくさん初スタッフとして動いてくれた年。スタッフ陣の平均年齢が一番若かった年なのではないかな。全国のチームさんに声をかけて、ぴとぅ花見交流会を初開催しました。(初期は源人花見と言って、夢道源人さんとの花見はしていたそうよ☆)開催に向けての準備で、いろんなスタッフさんとたくさんお話しをしました。お花見当日より準備期間の方が濃い時間だったことを今でも覚えています。MC班をはじめて作った年でもあります。素敵な思い出。
 「花の虹」踊り子それぞれの花が咲き、みんながつながって虹になる。
チーム運営も、演舞も、そんな世界を作ることを夢とし走った1年でした。


第6章 19期20期代表へ

 6期代表以降、事務局・衣装担当・広報担当・振り担当など各年いろんなことをしておりました。スタッフでない年もありました。
代表は、もうするつもりはありませんでした。ネガティブな意味ではなく、わたしが引っ張る時は終わった!と思っていたから。
それが13年経った今、代表。どうして?
答えは・・・よく分かりません。
次だれが代表する??となって過去代表が集まったのが18期の梅雨時期でした。代表と決まる10分前まで、まったくする予定はなかったのだけど、「あれ?流れがこっちにきたな…あ、わたしやるべきときなのか」って思ったら、代表になりました。そう思った理由を自分の中に探すとしたら、
「ぴとぅを無くす選択肢は、わたしの中にはなかった。」これだけだと思います。立候補者がいなかったら夢源風人は解散というスタイルで19年間つないできました。だから。
やる予定はなかったのに、迷う時間なく就任。という不思議感覚。決まったときは19期20期2年代表すると宣言しました。なぜかコロナさんのことがあって3年になりました(*’ω’*)アレ?笑

そして。
幸せなことに、たくさんの人に支えられ、今があります。
今回、コロナさんのことがあってたくさん考えることがありました。一番大事なところが丸裸にされて見えてきた期間でもあったなぁ。いろんな話をしても、最終結論はいつもここでした。「みんなに会いたい」
すべてが無くなっても、「心だけはつながっていたい。」
 夢源風人のメンバーは、踊り子さんもスタッフさんも一晩かけて話すことができるくらい、人として素敵です。一生懸命で、思いがあふれていて、ちゃんとつながっている。ぴとぅの演舞で素敵なところは「踊っているメンバーが、演舞でお客さんとお話しができること」。
夢源風人のまわりにいてくれる方々も素敵。お祭りにいっても、どこにいっても、笑顔があふれる。そんな世界に存在できることは幸せでしかない。
本当に大切なもの。この幸せがどんどんつながっていくことを願って、みんながいつでも帰ってこれる場所であることを想って。
最終章を書くことはきっと、ないでしょう。
いつも。
ありがとう。


―あとがき―


 わたしが今これを書いているのはどうしてなのか。普段のように活動できなくなった中で、何に気づいたのか・・・。
SNSを見ていても、お友達とお話ししていても、各地のお祭りや、チームさん、みんなが、これまでしてきた活動の意味を、今、見つめていると感じます。毎年変わらずあると思い進めてきた活動の中で、どこか意味が薄れ、楽しさが勝ったり、作業になったり、違うところが大きく見えていたところもあるのかもしれません。
最初に大事にしてきたことは何か。本当に大事にしたいことは何なのか。今年しかない学生チームさんは、様々な思いが交錯する中、今年なんらかの形でやり遂げるために、引退を迎えるために今もたくさんもがいています。
それぞれの1年。いままでにない1年。この1日が。ひとつずつきっと未来につながっている。起こることすべてにきっと意味がある。
 縁、つながり。
これはわたしにとって、わたしの思いを形作るすべてなんだろうと今は思っています。

ふるいひと
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このWebサイトはぴとぅ広報班が管理しています。
『ただいま』って戻れるあったかい場所☆つもりん
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MCの団扇持ってる写真

よさこいとの出逢いを綴るって、超ハードな作業。。。
私のコトバに興味がある人なんて少ないとは思いますが、ココロを込めて綴ります。
長くなりそうなんで、どうぞゆっくり時間がある時にお付き合いください。


-中之島まつりとの出逢い-

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第26回中之島まつりポスター

私がよさこいに出逢ったキッカケを語るにはやっぱりここからだな、と思います。
現在39歳、2人の子持ちの関西のおばちゃん全開の私ですが、そんな私にも女子高生という可愛らしい時はありました。
芸能文化科という上方芸能を学ぶという特殊な高校に通い、体重75キロという巨漢の割に楽しい学生ライフでした。
授業の一貫である落語家さんたちのお祭り(毎年9月開催の彦八まつり)にお手伝いに行き、そこで中之島まつりの実行委員会さんと出逢います。
当時は演劇とダンスに没頭してた私。
『中之島まつりのステージやらしたるから一緒に祭り作ろう』
とのお誘いにほいほいくっついていきましたwww
そうして初めてお祭りの運営に携わったのが、1996年、15歳秋のこと。
中之島まつりでは、たくさんの経験をさせてもらいました。
子供ステージのステージ長に始まり、メインステージのステージ長、飲食ブースの店長、そしてお祭り全体の事務局長。
当時は中之島まつりが私のすべてでした。
そんな生活の中、新たな出逢いが訪れました。

-こいや祭りとの出逢い-

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第1回こいや祭りガイドブック

中之島まつりの事務所がほぼ自宅化してた私。
ある日、めちゃくちゃ美人の大学生がやってきました。
はい。第1回こいや祭り実行委員長の野澤さんです。
なにやら、大学生が実行委員となって、大阪で踊りのお祭りをしたいらしい。。。
『応援しよー!』って訳で、私の自宅化していた事務所は、急に美男美女大学生が毎日真剣に話し合う事務所となりました。
当時まだ18歳?だった私は、どう考えても自分より大人びてる同世代の人たちに圧倒されっぱなしでした。
そして、迎えた第1回こいや祭り。
私はブースからステージを見てました。
もともとダンスをやってたこともあり、ウズウズしっぱなし!笑
とにもかくにも無事に第1回こいや祭りが終わり、さぁ、次は自分たちの祭りに没頭!と日常に戻ったのです。
しかし、私と同じようにウズウズしてた人が他にもいました。
私と同級生のお父さん。。。
《もりしげさん》です。

-よさこい踊りとの出逢い-

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こいや祭り実行委員としてよさこい普及活動

ある日、急に《もりしげさん》に『つもり、踊るん好きやろ?城公園行こうや』と誘われました。
よくわからないままついていくと、そこにいたのは《ひめ》と呼ばれる綺麗だけどサバサバしてて少し怖いwww方。
挨拶もそこそこに、急に振り落としが始まりました。
【こいやの舞】ともう1曲(諸事情により曲名は出せません)でした。
なんと数時間でまるまる2曲の振り落としを受けました。
で、、、、
はい。ハマりましたwww
もっともっと踊りたい!踊り子のみんなと仲良くなりたい!
そんな思いが溢れました。
が!
私は祭りを作る側の人間だ!という変なプライドが邪魔をし、メンバーにならず、中之島まつりやこいや祭りの実行委員をメインに活動していました。。。

-夢源風人との出逢い-

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カウントダウンイベントでこいや祭り実行委員と

ぴとぅとの出逢いの章なんですが、、、実はあまり覚えてないんです。。。
いつの間にか振り落としを受けていました。確か、何かのイベントにだけ、スポット参加することになったのがキッカケだと思います。
だから、最初に振り落としを受けたのは総踊りの【花祭り】でした。
そんなに練習にも参加できなかった私にもみんなすごく温かかった。
なんだか青春だった。
そんな空気感だけが鮮明に残っています。
財政難なチームの為に、フリマを開こう!とみんなで商品を持ち寄ってフリマに出品したり、こんなチームにしたい!とか、よさこいの魅力とか、私の知らない世界を聞かせてもらいました。
《ほりちゃん》《あかちゃん》と気軽に呼んでた気もするけど、当時は本当に気楽に参加してました。何も役には立てなかったけど、裏方として思い付くことは言ってた気もします。
活動に行ったり行かなかったり、、、当たり障りのない、居ても居なくても同じな活動をしてました。
そんな私がぴとぅにどっぷり浸かったのは2005。
同じ中之島まつり実行委員だった《まるさん》が代表をするとのことで、誘ってもらって、真剣に練習しました。
振りは、これまた中之島でご一緒の《みっつん》。
この年は頑張って練習に行きました。
初めて衣装も買いました。
だけど、高知のよさこい祭りには興味がなく←今考えるともったいない。『あんなに暑いところで踊るなんて信じられへん!』の殻から抜け出せず、衣装を着て踊ったのは寒い冬の季節のみwww

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EXPOまつりんぐ

両肩が出てる衣装はかなり寒かった!
あ、この2005に《はなちゃん》がぴとぅにやってきました。
今とほとんど変わらない、超超可愛くて踊りも上手でストイックで、はなちゃんと初めて会った日は今でも鮮明に覚えています。
その後2006は廃人になり、2007にたった1回だけ復帰しました。
明石やったかな、、、?
振りもままならない状態で、産んだばかりのりょうやを連れて参加し、見事に気持ちが敗北。。。
そこからは子育てに追われる日々となりました。

-再会。そして、ただいま-

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雨の神戸よさこい

りょうやが幼稚園の時にとあるキッカケで、またよさこいとご縁することとなりました。
【よさこいチーム天舞音】です。
地域の小さいお祭りに参加してる小さいチームかと思っていたらビックリ!
いろんなお祭りに参加してて、私は久々に夢源風人の演舞を観ることになりました。
数年振りに見たぴとぅはすごいことになってました。

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こいやプレでのかなみとここちゃん

コトバでは表現しにくいけど、笑顔溢れてる数がめっちゃ増えてて、洗練された演舞で、キラキラしてました。
久々過ぎて声もかけにくかったけど、ある年のこいや祭りで、ぴとぅのブースに行って、『久しぶり!』と勇気の一言。
すると、私の心配はどこへやら、普通に話してくれる仲間がそこにはいました。
りょうやが4年生になる年、私は決意。
私もぴとぅで踊りたい。仲間になりたい。
そこで、《かなみ》に『子供らいてるし、高知には行けないけど、私、復帰しても良いかなぁ?』と連絡しました。
みゆかを産んだ後もずっとずっとぴとぅに居るかなみだけが頼りでした。
お返事は『OK!』
(ノ´∀`*)
メンバーに新曲【あふさかんシンフォニー】御披露目となったクリスマス忘年会より、復帰となりました。
心機一転、私は本名で《かつまま》と登録したのですが、
そこには《かなみ》《はなちゃん》《みっつん》《ポッター》《あきべ(名前だけ知ってた)》《たいが(ぴとぅではないところで知ってた)》などなどが私を《つもり》と呼ぶので、あきらめて登録名は《つもり》を通すこととなりました。

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あふさかんシンフォニー

-夢が叶った-

あふさかんシンフォニーは家族で私だけが参加。まだまだ小さい子どもたちを連れて練習に行くことは叶わず、始めに開催された振り落とし合宿だけが頼り。子どもたちを退屈させないように工夫しながら皆さんにも協力してもらいながらのスタート。
ほとんど練習に行けずでしたが、かえる祭りや神戸よさこいなどに参加しました。
日頃の練習には1人で参加してましたが、イベントには子どもたちを連れてました。
そして、大阪大会。
大賞は逃しましたが、ぴとぅは金賞でした。
それを見たりょうやが『ぼく、来年ぴとぅ入ろうかな』と!
嬉しかった。本当に嬉しかった。
みんなの笑顔、温かさ、その全てが4年生のりょうやにも届いたんだ!と実感しました。

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初めての高知のよさこい祭り

りょうやと私の親子ぴとぅ初演舞は
【ハレ、晴れ】
そして、家族みんなで、初めての高知のよさこい祭りに参加しました。
まさに、ハレ舞台でした!
その後は皆様ご存知のように、りょうやにとってよさこいとの出逢いは人生の大切な宝となっています。

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りょうや、ハレ晴れ

-もう1つの夢-

りょうやと私がぴとぅに明け暮れる毎日。当時まだ年中さんだった妹のここちゃんにとってもぴとぅの時間が楽しくなるように色々と工夫をしていました。
ここちゃんは、先ほど出てきた地元のよさこいチーム【天舞音】に所属しています。
ここちゃんの口癖は『私は天舞音が忙しいからぴとぅは無理!』ですwww

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よさこいチーム天舞音

そんなここちゃんが、2019年(ここちゃん1年生)の高知で帯筋のみんなの演舞を見ながら『20周年はここちゃんもぴとぅで踊るで!』とあらためて真剣に言ってきたのです。
まさかの、家族3人で!嬉しすぎです。

本当なら、来年が家族デビューでしたが、1年延期。
悔しくも、りょうやの高校受験と重なり、みんなと一緒のスタートは難しいですが、身体を壊しまくっている私にとっては最善の体調で参加できるように調整する時間が増えました。
りょうやも4月からスタートでもみんなと高知に行く!受験時期は仕方ない!と腹をくくっています(>_<)

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家族でよさこいカウントダウン

-私にとっての夢源風人-

ぴとぅは、あったかいです。
ぴとぅは、やさしいです。
ぴとぅは、げんきです。
ぴとぅは、じゆうです。
ぴとぅに出逢って人生は変わりました。
ぴとぅに出逢って人を想う事を知りました。
ぴとぅに出逢って自分に優しくすることを知りました。
昨年の高知で、ホテルのテレビを通してみんなを見た時、ココロから、
【みんなの笑顔が私の郷です】と思いました。
たくさんのありがとうと
たくさんのかんどうと
たくさんのえがおがある
そんなチームに一緒に居れることが
本当に幸せです。

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みんなからのお手紙